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―――カチャ 「……ん?」 何か落ちた。 けたたましい目覚ましを叩いて止めて、古賀は重たい瞼をゆっくり持ち上げた。音のした方、すなわち壁ではない方へぐるりと体を回転させ、焦点を合わせる。 「何で……」 見慣れた床に、見慣れないもの。 「何で……眼鏡?」 パチパチ数回瞬きをして、何回見ても、眼鏡である。おかげで少し目が覚めた。 えーちょっと待って、ワケわかんねぇ。 ぼんやりした頭でもこの状況がおかしいのだけは理解できる。シンプルな銀色のフレーム。自分は眼鏡なんて持っていないし、また悲しいことに同じベッドで朝を迎えることができるような相手も今のところいない。ということは。 「……あれ……昨日どうやって帰ったっけ……」 はっと自分の恰好を見下ろした。まるで昨日のままだ。職場は普段着OKなので、普通のジーンズに青いシャツ。見るとジャケットは壁のハンガーにかけてある。いつも通りだ。いつも通り……だが、記憶がない。 昨日は三浦課長の送別会でしこたま飲んで、二次会のカラオケでも飲んで、それから……? 「頭いてぇ……」 明らかな二日酔いだ。記憶なくなるまで飲むなんて大学以来ではないか。 とりあえず眼鏡を拾い上げ、壊れていないことを確認する。だってさっきベッドの上から落としてしまったのだ。どこの誰のだか分からないが壊して弁償なんてことになったら大変だ。ただでさえ飲み会の費用ですら危うい生活だというのに眼鏡代弁償しろなどということになったら痛すぎる。 て、どこの誰だかわからない奴の眼鏡がなぜベッドの上に? 「……ま、いっか」 思い出せないものは仕方ない。とりあえず、もう少しして頭が覚醒すれば思い出すだろう、ということにして、古賀は大きな欠伸をした。 ***** 「おー古賀、遅刻するかと思ったぞ」 古賀充成(こが・みつなり)の勤める会社はさほど大手ではないシステム開発会社で、ビルの5階フロアに数部屋を設けている。エレベーターを降りるなり声をかけてきたのは、私服の古賀に対してスーツ姿の男性だった。 「はよーございます」 昨日送別会をした三浦課長だ。38歳の愛妻家なのに単身赴任が決まってしまったという奇特な人である。 「あ、今日まででしたっけ」 うっかり古賀が言うと、三浦は恰幅の良い体でガシッと肩を組んできた。ラグビーでもやっていたのかと言いたくなるような身長と肩幅だがその実スポーツはてんでダメだという彼は、飲み会でそれを聞いた際『えっそうなんですか?』というみんなの言葉に対して『なんだ悪いか』と言った時のようなふてくされた睨みを利かし、言った。 「何でまだいるんだ、って顔したな、お前」 「そんな、被害妄想ですよー。あ、今日のネクタイも良い色ですね」 「おっ、なんだお前も分かってんじゃねぇか」 これはカミさんが買ってくれたヤツでなー、と相変わらずの自慢話をスルーして部屋に行こうかと思ったが、とりあえず昨日記憶がなかったことは謝っておかねばならない。 「課長、昨日はすんませんでした」 「ん? あぁだいぶ飲んでたからな、主役差し置いて」 「あー、俺まったく覚えてないんですけど、大丈夫でした? なんか俺変なことしませんでしたか?」 「……」 眼鏡の奥の小さな目が不審な動きをした。 「え?」 何、その間。軽く聞いたつもりだったのに、予想外の反応だ。 「いや、大丈夫だ、問題ない」 「か、課長? それ何か大丈夫じゃないように聞こえるんですけど」 「おおっと今日は朝から挨拶回りだった! じゃあな!」 などと言って三浦はさっさと立ち去ってしまった。 「ええー……」 なんだ、一体何があったというんだ。しかし今走って追いかけて問いただす気力もない。しかも眼鏡のことを聞くの忘れていた。でもあの人はいつも眼鏡だが、今さっきもかけていた。ということは違うのだろうか。 とりあえず古賀は開発部へ向かった。 「古賀さん、おはようございます!」 「うおっ」 バカでかい声に頭が揺れた。 「お前……今日も無駄に元気だな」 ガンガンするこめかみを押さえてうんざりと背後を見ると、開発部後輩の野村だった。今年入社したばかりの22歳、のわりにその私服といいその茶髪といいかなり派手で目立つのだが、人懐こい性格が功を奏してかなかなかうまい具合に生息しているのは感心すべきところだ。 野村は古賀の顔を覗き込むと白い歯を見せて笑った。 「えーノリ悪いですよー。あ、二日酔いですか?」 「そーだよ。だからもうそっとしといて……あ、そうだ」 ようやく思い出して、古賀は鞄からタオルに包んだ眼鏡を取り出した。眼鏡ケースになるようなものが見当たらなかったので仕方なくだ。 「お前さ、これ誰のか知らね?」 そう言って眼鏡を野村に見せた。野村自身はコンタクトだから野村の物ではないと思うが、野村は意外と人のことをよく観察しているから知っているかもと思ったのだ。対する古賀は興味のあること以外まるで無頓着であるので、もう7年勤めているとはいえ、その辺の記憶はかなり頼りない。 「さぁ……男性用ですかねぇ」 やっぱ無理か、とため息をついていると、野村の目がやけに輝いて古賀を見上げてきた。 「落し物ですか?」 「そ。俺のベッドの上に」 「は?! 何それ超ウケる!」 「うるせーなぁ」 「ちょっと待って古賀さん、ひょっとして昨日のこと、覚えてないんですか?」 笑いを止めた野村に居心地の悪さを感じながら、古賀は頭をかいて答えた。 「実は、そうなんだよ」 「どこから?」 「どこからって……帰る前、くらいから? なぁ、昨日俺を家まで送ってくれたのって……」 聞こうとすると、がしっと肩を掴まれた。 「古賀さん、飲み過ぎは体に良くないですよ! もう歳なんだし!」 「失礼だな、まだ30になったとこだよ」 「知ってます? 酒で記憶なくす度に脳細胞って大量に死ぬんですよ?! これ以上物忘れひどくなったらどうするんですか! 古賀さん、俺ものすごく心配!」 「あのなぁ」 「でも大丈夫ですよ、会社にいる間はちゃんとフォローしますから! 俺は大抵のことじゃ怒りませんから安心してください」 「……」 人を勝手に老人扱いしておいて野村は立ち去ってしまった。ひどい奴だ、と思いながら、ふと気がつく。 今のって、体よく話逸らされてないか? なんだかしっくりこない気持ちのまま席につくと、隣の席に人影が現れた。同期の加藤である。 「はよっす」 「おっす」 課長の態度といい野村の態度といい、不自然にもほどがある。もしや自分は何かとんでもないことをしでかしたのではないかという不安がよぎってきて、古賀は単刀直入に聞いてみた。 「加藤、俺昨日何した?」 ひょろりと細長い体が椅子にもたれ、古賀を見てきた。そういえば加藤も眼鏡着用者である。しかしシャア専用などと言って常に赤黒フレームを身につけているので、こんなシンプルな銀縁眼鏡の持ち主ではないだろう。どうでもいいが机の上のフィギュア達がこっちに侵入気味なのはどうにかしてほしい。 「あぁ、大変だったな」 「え、何が?」 まさかの答えに古賀は思わず椅子の上で背筋を伸ばしてしまった。 「なぁ、何があったんだよ?」 「まぁ世の中には、知らない方がいいこともあるのだよ」 あからさまに意味ありげなことを言って加藤は何やら一人肯いている。 あぁそれもそうかもしれない、などと流されそうになる頭をブンブン振って正気を取り戻し、「いいから教えろ」とその肩を揺さぶっていると。 「――ちょっと古賀さん、何してんですか」 「ん?」 固い声が飛んできた。入口からスーツ姿の男が怖い形相でこちらにずんずんと近づいてくる。そう広くもない部屋なので距離はあっという間に縮まった。 「今日同伴してくださいって言いましたよね、KS商事に」 明らかに喧嘩口調であるが、古賀はポンと手を叩いた。 「あぁ、そうだった」 「そうだったじゃないですよ、何でまだ着替えてないんですか」 「大丈夫、スーツちゃんとロッカーにあるし」 「じゃあ早く着替えてください、今すぐ出たいんで」 「分かった、分かったからそう怒んなって」 「下で待ってますからね」 ビシッと冷たく言い切って、男は風と共に去っていった。 「怒られてやんの」 加藤の言葉に、もはや苦笑しかでてこない古賀だった。 東条佳次(よしつぐ)、25歳。入社後二年にして営業部のホープであるこの男とは、部署が違えどたまに顔を合わせる仲であった。というのも、納品時に営業と開発チームリーダーが共に取引先へ向かうことが多いためだ。開発部において古賀がチームリーダーを務めることが多く、一年ほど前からこうして共にスーツに身を包み外出することがあった。のだが。 「遅い」 「あぁ悪い、ネクタイどれにしようかなと」 「そんなのどれでもいいですよ。ネクタイ一つで見た目が変わるようなモンでもないでしょう」 「あんなぁ……」 この口の悪さときたらまったくもう。 やれやれ、とため息をついて、古賀は自分とは正反対に整った東条の姿を眺めた。 濃いグレーのスーツに赤いチェックのネクタイ。さすが営業と言うべきか、スーツのCMのようにビシッと着こなしている。身だしなみに使う神経が若干欠落している自分とは似ても似つかないその姿は、いくら生意気な後輩だろうが正直いつ見てもまぶしい。 「そらお前に言われたら何も言えねーよ、俺」 「それは分かってますから早くしてください」 苛々した口調で東条は古賀の持っていた水色のネクタイを奪うと、流れる動作で古賀の襟に結んだ。ロッカーの中にいくつか置いてあるネクタイを一瞥した所をみると、この色でも問題ないということなのだろう。厳しい割にこうして手を貸してくれるところはありがたい。頻繁に着るわけではないスーツは更衣室のロッカーに入れっぱなしなのである。 大きな手だな、とぼんやり見ていると、あっと言う間にネクタイを締め終えたその手がすっと髪を掠めた。その瞬間、東条の目が光った。 「ちょっと、何で髪湿ってんですか」 「ん? あぁ、朝時間なくて」 正直に答えると「はあ?」とまた怒られた。 「子供ですかあんたは。また徹夜でゲームしてたんじゃないでしょうね」 「いろいろあったんだよ……つーか耳元で騒がないで、お願い」 「は? 二日酔いですか? なんで納品前日なんかに飲むんですか、信じられない」 「うっさいなー、送別会なんだからしょうがないだろー。今日休まなかっただけマシじゃん」 「当然です。それよりちゃんと頭働いてんでしょうね?」 「うーん、どうかなー。やばいかも」 「ちょっと、いい加減にしてくださいよ」 「だって昨日のことも思い出せないんだよな」 「は?」 「だってさぁ、朝起きたら隣に眼鏡だぜ? おかしいだろ」 野村の「超ウケる!」ほどの反応はさすがに期待していなかったが、しかしその反応は少し予想と違った。 「何ですか、それ」 馬鹿ですか、と一喝されて終わりかと思っていたのだが、驚かれてしまった。結構気になるネタのようである。東条の驚く顔というのは珍しい。 笑いそうになるのをこらえながら、ロッカーの内側についてある鏡の前で髪の毛を撫でつける。 「いやだから、朝起きたらベッドに誰のかわからん眼鏡が置いてあってさぁ、朝から持ち主探ししてたわけよ」 「覚えてないんですか?」 「うん、覚えてない」 答えると、バッといきなりシャツが捲られた。 「ぎゃっ! 何すんだお前ッ」 「……いえ、何でもないです」 「何でもないのにセクハラすんなよなー」 腹を見られた。びっくりした。 早くしろとか言う割になんで面倒なことするんだよ、と引き出されたシャツを仕方なくもう一度ズボンに押しこんでいると、何やら少し考えていた東条が口を開いた。 「誰のか分かったんですか」 「へ?」 何のこと? と本気で聞き返すと、舌打ちをされてしまった。 「眼鏡ですよ」 「や、まだ。ていうかそんな時間なかったじゃんか」 「……」 「何? 何だよ、ちゃんと返すって、今日中に」 神経質だからなぁこいつ。と思っていると、また睨まれた。そして東条は無言でロッカーからスーツの上着を取り出すと、バサッと押しつけた。 「早く行きますよ」 「……へいへい」 何でこんなに嫌われてんだろうな、と思うけど、心当たりなんてまったくないから、生理的に無理なんだろうな、というところに結局行きつく。ゲームおたくなインドア派だし。でもそれを言えばうちの開発部には結構おたくが多いから、自分にだけ厳しいというのは謎だ。まぁ年下なだけ良かった。これが同僚か先輩であれば大喧嘩していたところだ。と言えば同期の加藤には「そりゃ逆だろう」と言われるのだが。 「――ではまた、今後ともよろしくお願い致します」 にこりと柔らかく笑っておじぎするその隣の姿を、古賀は思わず覗き見てしまった。自分には絶対に向けられることのない笑顔だ。まぁ、お客様用スマイルなんて会社の人間には使わないだろうが、しかしそれにしたって日頃普通の笑顔すら見たことがないから貴重である。 「そうだ、どうですか、昼でもご一緒に」 玄関まで送ってくれた営業担当者が機嫌良さげに声をかけてくれた。 「あ、じゃあ……」 と言いかける古賀を東条が遮り、 「申し訳ありません、これから次の予定が入っておりますので」 「あぁ、そうですか。ではまた今度改めてぜひ」 「えぇ、ありがとうございます」 「……」 車に乗り込んでから、古賀は尋ねた。 「次ってどこだ? 近くまで送ってくれたら俺会社まで歩いて帰るし」 「会社へ戻ります」 「いや、だってお前次のとこあるなら直接行った方が」 「眼鏡」 「え?」 「持ち主探すんでしょう」 ぶっきらぼうにそう言ってエンジンをかけた。 「お……」 驚いた。もしかして、一刻も早く眼鏡の持ち主を探すために。 「お前、優しいなぁ」 「何ですか気持ち悪い」 整った眉が思い切り顰められた。 「いや、だってさぁ」 まさかそんなに気にされてるとは思いもしなかった。 「勘違いしないでください。持ち主が困ってるだろうから言ってるんです」 「分かってるって」 「にやにやしないでください」 「照れるな照れるな」 思わず笑ってしまった。態度は生意気なのに、こういうところがあるから。 動き出す景色を目で追いながら、古賀はネクタイをゆるめた。 「じゃあ戻って探すかー。眼鏡の持ち主」 昨日の飲み会メンバーは第一開発部のみなので、20人弱を当たれば済むことだ。 「なんか、シンデレラの靴みたいだな。一人ずつかけてもらって『これはあなたの眼鏡ですか』みたいな」 想像して笑ってると、冷たい一瞥がドスッと突き刺さった。見えないのに威力はすごい。 「呑気ですね」 「えー? だってそんな深刻なことでもないだろ」 「……」 妙な間の後、「知りませんよ」と冷たい言葉が刺さった。 「おかしい……」 簡単だと思っていた仕事は、意外と難問だった。 昼休み。呑気だった古賀もさすがに悩み始め、うどんを前に頭を抱えていた。二日酔いの頭痛は治まってきたがこのままでは別の頭痛が出てきそうである。大根おろしと梅干しのせうどんは食堂のおばさんが二日酔いにはオススメと言って出してくれたものである。 すっと目の前に影が出来て、顔を上げると東条だった。向かいの席に本日のA定食の乗った盆を置いて座り、その視線が机の上の眼鏡に止まった直後。 「ちょっと、何でまだ持ってるんですか」 「いや、だって見つからねんだよ」 呆れるその気持ちは重々分かる。でも自分だって不思議なのだ。 「皆に聞いたんだけどさぁ、皆違うって言うんだよなー。ちょっとしたファンタジーだよ。もうSFの世界だよ」 「は? それを言うならミステリーでしょう」 「じゃあ、SM?」 「何でSを付けたがるんですか」 明らかにイラッとした口調でつっこんで、東条はマイ箸を取り出した。古賀もいつもはマイ箸なのだが今日はうどんなのでもらってきた割り箸を割った。 それにしても、社員食堂とはいえ2人で昼食なんて珍しい状況である。今日はどうした、機嫌が良いのか、と思いつつ目の前の男を盗み見るが、その仏頂面はどう見ても機嫌が良いようには見えない。 「ていうか、自分のだったっていうオチじゃないでしょうね」 そんなに眼鏡の行方が気になるのか、オムレツを切りながら東条が言った。 「ないない。俺視力良いもん」 「まさか、冗談でしょう」 「なんで疑うよ。プログラマーが皆目悪いと思うなよ」 「だってゲームばっかりしてるのに?」 「そうそう、奇跡だよなー。俺ってまさに奇跡の存在」 「他の箇所に使うべき神経が全部目にいってるんでしょうね」 「おぉ、なるほど。そうかもしれん」 「……」 素直に納得すると呆れられてしまった。まぁ今更そんな視線など気にしない。ずずっとうどんをすすると、汁が飛んだ。 「ちょっと、眼鏡に飛んでるじゃないですか」 「あ、やべぇ」 「あんたねぇ……」 うっかりシャツで拭こうとするとポケットティッシュを渡された。 「おぉ。サンキュ」 へへ、と笑ってごまかすと、大きな溜息をつかれてしまった。溜息つくほど呆れているのに席を立つ様子はないのは見上げた根性だと言いたくなる。本当に今日はどうしたというのだ。 「しかし普通に考えて、あんたを家まで送った人のものでしょう。それくらい誰か分からないんですか」 「それがなぁ……」 眼鏡主探しと同時にそれもみんなに聞いたのだ。しかし、「さぁ?」という言葉が半数以上、その他「課長じゃないですか?」「加藤さんだったような」「5人くらいで送っていくの見ましたよ、知りませんけど」とまるでバラバラ、信憑性を得ない言葉ばかりでどれもあやふやなのだ。 そして朝の課長や野村や加藤のあの意味深な言葉が気になるのだが、何故だか聞いても教えてくれないし。課長はあれから外回りに出ているから帰ってきたらもう一度問い詰めようとは思っているのだが、でも眼鏡は既にかけていたから違うだろう。 「だいたい、紛失者が名乗り出ないのがおかしいですよ」 やけに苛々した口調で東条が言った。 「なくした奴も酔っぱらってたとか?」 「酔っ払いが酔っ払いを送ったりしますか」 「うーん……じゃあ、スペアあるからいいや、って諦めてるとか」 「たとえいくつ持っててもなくしたものは探すでしょう。特に眼鏡のような高価な物は」 「だよなぁ。俺だってゲームたくさん持ってるけど一本でもなくなれば大事件だもんなぁ」 「ゲームはどうでもいいですけど」 「どうでもよくねぇよ一大事だよ」 「それか……」 顎に手を当て考える姿は東条がすると様になる。開発部はだいたい男共で固まって昼食を取るのに対し、東条の周りにはよく女性社員をみかけるのだが、こうして改めて見ると近寄りたくなる気持ちも分からんこともない。ずるいよなぁ、と見惚れていると、その目がこっちを向いた。 「言えない理由がある、とか」 「言えない、理由?」 なんだそりゃ、と笑いそうになったが、探るような視線がじっと向けられてくるので、古賀はぐっと我慢した。 「朝起きて何か変わった様子はなかったですか?」 「うーん……あ、俺のゲームを盗んだとか?!」 部屋の本棚には二百本近くのソフトが置いてあるからどれか1本がなくなっていても気付かないかもしれない。 「あのねぇ、何ですぐにゲームと結び付けるんですか」 「だって……じゃあ何があるんだよ?」 「知りませんよそんなこと」 「うーん……」 言えない理由と言われても。そうだこういう時は相手の立場になって……て、無理だ。そもそも眼鏡を落とすところから理解できない。 「記憶をたどるしかないですね」 茶を飲んで、東条が言った。 「どうやって?」 「それくらい自分で考えてくださいよ。ゲームで考えるのは得意なくせに」 「無理。俺仕事とゲーム以外で論理的に考えるの本能的に無理」 「威張らないでくださいそんなこと。だいたい記憶なくすほど飲むんじゃないですよ良い歳して」 「あ、今それ言うかー」 「あんたがイライラさせるようなこと言うからでしょうが」 「俺だってなぁ……」 誰にでもこんなんじゃねぇよ。 と、自分で思って、驚いた。 「何ですか」 「いや……もう総務に届けようかなぁ」 眼鏡を手に取る。何気なく自分にかけてみると、相当度がきついのか、くらくらした。 「似合う?」 そのまま顔を上げて笑って尋ねると、目を逸らされてしまった。 「似合いません」 「ちぇっ」 外したそれを今度は東条にかけてやろうと手を伸ばす。東条は少し目を開いて身を引いたものの、逃げ出すことはなく、あっさりつけることに成功した。銀縁フレームの眼鏡を着けた東条は、なんだかとても。 「うわ、賢そう」 「あんたに比べれば誰だってそう見えますよ」 「ずるいよなーお前、何着ても似合うもん」 「何なんですか、気持ち悪い」 気持ち悪いとか言う割に、面倒見いいもんなぁ。今日だってずっと、気にしてくれて。 頬杖をついて、古賀は目の前の眼鏡男子をまじまじと見つめた。そしてずっと気になっていたことを聞いてみた。 「なー、今日は何でそんなに協力してくれんの? 眼鏡のこと」 「……」 何か言いかけた口は、一瞬開いたがすぐに閉じられた。不意に居心地が悪くなる。東条と一緒にいてこんな雰囲気になったことがなかった。だいたい嫌味を言われている状況が日常風景だったから。 咄嗟に、はは、と笑ってごまかした。 「お前、意外と俺のこと好きなんだろー」 笑ってごまかすというのは、冗談ですよという意思表示が込められているもので、だいたいにおいて通用すると思っていたのだが。 「だったら、どうなんですか」 「……え?」 通用しなかった。 そして何を言われたか把握できなくて、素で首をかしげてしまった。 眼鏡越しなのにいつもより強い目で東条が言う。 「もし、そうだと言ったら、どうするんですか」 「東条……」 何だ、何を聞かれているんだ、これは。 俺のことが好きだと、もし東条が言ったのだとしたら。だとしたら、俺は…… 「――こら東条、なに人の眼鏡かけてんだ」 「?!」 東条の隣の席に座ったのは、三浦課長だった。 「か、課長……の、眼鏡?」 「お前が持ってたんだなー。って、何でお前が持ってんだ?」 「いえ、これは古賀さんの家にあったんですけど」 「おぉ、そうか」 何食わぬ顔をして眼鏡を取り上げる課長に、古賀がすかさず尋ねた。 「そうか、ってことは、昨日は課長が送ってくださったんですか?」 それにしても眼鏡を置いて帰るというのは一体どういう状況かと不思議に思っていると、急に歯切れが悪くなった。 「あ、いや、俺が送ったわけじゃなくてだなぁ……」 するとそこへ、 「あ、課長のだったんですねーその眼鏡」 加藤がやってきた。隣に野村も一緒である。 「課長が忘れて帰ってたなんて全然気付きませんでしたよー」 「あっ野村」 加藤が野村の腕を慌てて引っ張った。 それに目敏く気付いたのは古賀よりも東条であった。 「ちょっと、皆さんで何隠してるんですか」 「……」 しばしの沈黙。再び東条が畳みかける。 「その言い方だと、三浦課長と加藤さんと野村は少なくとも古賀さんの家にいたんですよね」 「……」 その妙な迫力に古賀まで気圧されてしまう。加藤と野村の視線を受け、肩書きを背負った課長が仕方なく口を割った。 「古賀、怒らないと約束してくれ」 「……なんですか」 「昨日は確かに……3人でお前を送って行ったんだが……」 ゴク、と唾を飲む。緊張の瞬間。 「『深海の蒼雲』勝手に進めてデータ消してしまいました」 「はあぁぁぁぁ?!!!」 絶叫が食堂に響き渡った。 「何してくれてんですか課長―――っ!」 「待て、落ち着け古賀! 俺は悪くない、加藤が勝手に」 「ちょっと課長、俺のせいにしないで下さいよ! 野村がやろうなんて言い出すから」 「おっ俺は『このゲームやったことない』って言っただけじゃないっすか! 電源入れたのは加藤さんでしょー」 「でも酔っぱらってデータ消したのは課長ですよね! そんで慌てて眼鏡落としてったんじゃないんですかっ?」 「あああ俺の貴重な3ヵ月半を―――ッ!」 「すまん古賀――ッ!」 バン!!! 机が叩かれた。 「いい加減黙ってください」 「……」 今まで以上に表情のない東条がその凄まじいオーラで3人を制した。しかし古賀もこの時ばかりは「手痛そう」などと思う余裕もない。 「ううっ……お前にはこの辛さはわかんねぇんだよ……!」 すまん、悪かった、と謝る加藤の手が古賀の肩を抱き、東条の目がますます険しくなった。 「良い大人がゲームごときで情けない。だいたい酔っぱらって寝こけてた古賀さんも悪いんじゃないですか」 「お、俺が悪いのかよ……誰だ俺に飲ませたやつはぁっ」 八つ当たりも甚だしいことを古賀が叫ぶと。 「や、古賀さん自分で飲んでたじゃないですか」 「……え?」 「何だよ、それも覚えてねぇの?」 野村に続いて加藤も言う。いやまったく覚えていない。 「いい加減にしとけよ、って止めてやったのにお前、『何で東条に嫌われてんだろう』って嘆きながら一人ヤケ酒してたじゃん」 「……!!」 瞬間沸騰湯沸かし器を体現したかと思った。 「ちょっと、何ですかそれ……」 死ぬ。今なら確実に死ねる。恥死率マックスだ。 逃げようとした腕が東条に掴まった。 「今すぐ詳しく聞きましょうか」 「ちょっ……勘弁して。お願いします」 「嫌です」 「東条……!」 慰めてもらえ、と胡散臭い頬笑みで3人に見送られながら、古賀は食堂から引きずり出されてしまった。 「へえ、古賀さんも俺のこと好きなんじゃないですか」 「うっ……」 もう真っ赤な顔は隠しようがない。屋上手前の踊り場で立ち止まると、古賀は東条の腕を振り払って壁伝いにしゃがみこみ、両膝に顔を埋めた。スーツが汚れるとかもうどうでもいい。史上最高の恥ずかしさに泣きそうだ。 そうだ確かに、東条を怒れなかったのは年下だからとかいう理由じゃなくて、単純に好意があったからに他ならない。だけど東条には嫌われてるし男だし、叶うわけないと諦めていたし、一生口には出さないと決めていたのに……まさか、こんな恥ずかしい方法でばれてしまうなんて。しかも同僚としての単なる好意かそうでないかなんてことはさっきからの反応でバレバレに違いない。それは分かるけど、でも今更体勢を立て直すことなんてできないし。 「だったら、どうなんだよ……」 こっちもさっきのお返しのつもりで言うと、意外と近くから声が聞こえた。 「だったら、うれしいに決まってるじゃないですか」 「……へ?」 さっき自分が言えなかった言葉を紡いだその唇が、近づいて、ぶつかった。その端正な顔をどアップで見ながらパチパチと数回まばたきをした。 「ちょっと、目閉じてくださいよ」 「あ、ごめ……ん? ちょっ、東条……!」 首筋に手が触れ、そのまま襟から入った手がするりと肌を撫でる。ガチガチに強張る古賀の体をほぐすように、襟首から髪をそっと梳かれた。 「あぁもう……認めたくなかったんですけど」 掠れ気味の声が耳にささやかれる。ゾクリと背筋が震え、上ずった声が出てしまった。 「な、にが……」 「だってどう見てもただのゲームおたくだし、年上なのにだらしないし世話やけるし」 「すみませんね……」 やっぱりそう思われてたかぁ、と思うと、分かっちゃいたけど少し傷付く。 しかし、大きな手が古賀の頭を引き寄せ、コツンと額がくっついた。 「それなのに何で、可愛く見えるんですか」 「か……」 可愛い? 「お前、本当に眼鏡かけた方が良くないか?」 「ちょっと、本気で心配しないでくださいよ」 「だって俺今なんか気の毒になったぞ……」 「俺の心配より、自分の心配した方がいいんじゃないですか」 「あ、ゲーム?」 「だからゲームはもういいですって」 焦れたようにそう言って、再び口を塞がれた。 「ふっ……!」 熱く濡れた舌先が唇を割って入ってくる。久しぶりの感覚だというのに、こんなのは初めてだった。一度侵入を許した熱は字の如く息つく暇もなく絡まり、思考回路を遮断する。 「とっ……待っ……苦しいって!」 「何ですか、まさか初めてってこともないでしょう」 ほんの少しだけ唇を離し、東条がささやく。自分だけ息が上がるのが恥ずかしくて、古賀は逃げるように真っ赤な顔をそむけた。東条とキスするだなんて想像もしていなかったことに脳がついていかない。現実として理解できない。 「ってか……こんなのは、初めてだよ……」 「……」 消えそうな声で言うと、目の前の男はまさかの笑顔を見せた。 「こんなので逃げてもらっちゃ困りますよ。今まで我慢した分全部受け止めてもらいますから」 「ちょっ、お前、やっぱり俺のこと嫌ってないか?!」 レアな笑顔に不吉なものを感じるのだ。そもそも今までだってあの数々のきつい態度、おせじにも自分のことを好ましく思っている人間の態度とは思えないのだが。 そう言うと、東条は少し目を逸らした。 「それはまぁ、できるなら認めたくなかったですし……」 「あぁ、そっかぁ」 確かに東条のような男には可愛い女の子がお似合いだし、よりによって何でこんな男を、と自分でも許せなかったんだろう。何だか複雑だがとてもよく分かる。 「それに、古賀さんが……」 「え、俺のせい?」 「何でもかんでも受け流すからじゃないですか、俺の言葉を」 「……」 確かに、あからさまな嫌味にそんなに怒ったことはないけど、それはもちろん、嫌じゃなかったからで。 でもそれってもしかして、構ってほしいから好きな子をわざといじめるとか、そういう小学生男子的な…… 「お前、可愛いなぁ」 思わず笑顔で言ってしまった。東条の顔にも赤みがさす。 「なっ……馬鹿じゃないですか。古賀さんに言われたくないです」 「ん、それ嫌味になってないぞ」 「だいたい古賀さん誰に対しても優しいから見ててはらはらするんですよ。もうちょっと自重してください」 「お前、そんなに俺のこと見てんの?」 「それは、確かにそうですけど今はそこに食いつかない。分かりました?」 「はいはい、分かったよ」 何だこの男、可愛いなぁ。 怒られるので今度は心の中でだけつぶやいた。 「でも、お前にはもうちょっと優しくしてもらえるとうれしいな」 「……善処しますよ」 ***** 「課長、がんばってきてくださいねー」 「くそ、あっさりしやがって。『行かないで』とか言えないのか」 「『行かないで課長!』」 「『行かないで〜!』」 「お前ら、覚えてろよ……」 就業時間が終わり、開発部では課長がみんなに囲まれて最後の挨拶(?)を迎えていた。 「あ、東条」 ドアから顔をのぞかせた東条に気付いた古賀が手招きをする。部が違うから、と遠慮していたのだろうが、それを見て入ってきた。 「おう、東条。これからも古賀をよろしく頼むな」 「はい、任せてください」 「ちょっと課長、何で俺なんですか」 逆じゃないか年齢的に、と思っていると、にやにやと笑いながら課長が近づいて、耳打ちした。 「東条に嫌われてるとか思ってたの、お前だけだぜ?」 「……え?」 「ちょっと」 課長から引き離そうと東条は古賀の腕を引っ張った。 「あ、うまくいったんだ?」 それを見て加藤が言った。 「ほら言ったじゃないですか。ベッドの上の眼鏡にきっと東条さんはあらぬ誤解をして……」 「あーあー黙れ野村」 「誤解?」 「何でもないです、あんたが間抜けだって話です」 「東条……」 やっぱり冷たいじゃん……まぁそれでこそ東条だけど。 そう思って人知れず肩を落としていると、再び課長への挨拶が始まった輪の外で、こっそりと手を繋がれた。びっくりして隣を見上げると、逸らしたままの赤い顔。 可愛いなぁ、とときめくのも仕方ないだろう。 そっとその手を握り返すと、耳まで赤くなった東条にとうとう噴き出してしまった。 |
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ブログにて結構続きを書いてしまいました…よろしければ! なにげに視点全部違うという… 送別会裏話 意志疎通を図りたい 前/後 |