■旦那様の恋人


「いってらっしゃいませ」
 革の鞄を手渡し、軽く頭を下げる。靴もOK。スーツも目立つ皺はないし――
「あ、竜臣様」
「ん?」
 ネクタイが、と手を伸ばすと、間に他の手が割り込んできた。あ、と思う間もなく、仕事を取られた神田は見ているしかなかった。
「急いでください。今日は道が混んでいるかもしれません」
 落ちついた低い声でそう言うのは、運転手兼ボディガードだ。黒のスーツを着込んだ背を少し折り曲げ、彼は主人のネクタイをきゅっと締め直した。そしてさらに。
「睫毛が」
 片手で肩を引き寄せ、主の目尻にそっと指を這わせた。
「あぁ、すまん」
 近い、近すぎる。と傍観者ながらにドキドキする神田の目の前で、何故か一瞬見つめ合う2人。
「……」
 えー……時間ないんじゃなかったのかよ。
 心のツッコミを隠して微笑んでいると、2人を乗せた車はようやく出発してくれた。






「はぁ……もう毎日毎日……」
「あれ、どうしたの神田君」
 厨房に入ると、料理長の野原光也は朝食の片付けを終えたところのようだった。
「朝から溜息ついちゃって」
 椅子に座るなり、神田はもう一度大きな溜息をついた。
「だって野原さん……!」
「うん?」
「絶対、あの2人ってできてますよね!」
「2人って?」
「竜臣様と黒崎さんですよ」
「こらこら、下世話な詮索をしない」
「だって……!」
 だってあの瞬時に醸し出される雰囲気。普通じゃないだろう。本当、毎日勘弁してほしい。
 といい加減うんざり思っているのは、執事としてこの屋敷に勤めている神田晃斗(かんだ・あきと)、26歳。まだ1年しか経っていないが常々思っていた。
 この屋敷の主であり、某大企業の若社長である桐生竜臣(きりゅう・たつおみ)と、そのお抱え運転手である黒崎将弘(くろさき・まさひろ)。竜臣は線の細い美形という感じであるのに対し、黒崎はボディガードも兼ねているだけあって背も高く体つきもがっしりしているがその顔立ちは端正であり、2人が並ぶとお似合いと言えなくもないのだが、だからこそ余計目立つのだ。
「それって、神田君は嫌なの?」
 野原が隣に座り、いつの間に淹れたのか緑茶を差し出してくれた。
「別にね、いいんですよ。恋愛で男同士とか本人さえよければ、俺にとってはどうでも」
 今朝も俺がネクタイを締め直そうとしたら黒崎さん押しのけてきたし。指一本触れさせたくないということなのだろう。別にどうでもいいんだけどさ。
「ただほら、もし会社でもあの調子だったら、変なうわさが立ったりしたらまずいでしょう。社長なんだし」
「心配なんだ?」
「俺の仕事がなくなるかもしれないことが心配なんです」
 だって変なうわさが経って会社の経営に影響が出るようなことがあれば業績も悪くなり従業員リストラなんてことになるかもしれない。となれば会社だけでなく当然執事としての地位も危うい。
「いやーそれは大丈夫でしょー」
「分かんないじゃないですか。もう毎日あの調子だと心配なんですよ。俺はただ仕事さえできたらいいのに……」
 正直、この仕事はおいしい。執事なんてどこの異世界のお話かと思っていたが、給料だけで飛びついて駄目元で応募して、どういうわけか面接だけで採用してもらえたのは本当に運が良かったと思う。お金に関しては今まで散々苦労してきたせいか、自分の判断基準は全てお金な自覚は充分あるが、しかしそれで良いと思っている。だってお金が大切なのは事実だ。
「まぁ、そんなヘマはしないでしょ、あの人は」
 野原が言った。
「だといいんですけど……」
 10年以上ここに勤めている彼に言われれば、肯かざるを得ないところがある。
 立ち上がりかけて、神田はふと思い出した。
「あ、今日の夕飯もう決まってます?」
「ん、何で?」
「今朝竜臣様の声が少しおかしかったので、できたら体の温まりそうなものがいいかと思うんですけど」
「あぁそうなんだ、了解。考えておくよ」
「ありがとうございます。……何ですか?」
「いや、別に」
 何故か笑われたことに疑問を抱いたが、そうそうここでゆっくりもしていられない。神田は掃除のために書斎へ急いだ。



「そもそも、近いんだよな……」
 開きっぱなしのページに付箋を貼りつつ、誰もいない部屋で思わずつぶやいてしまった。竜臣の散らかし方はすごい。仕事としてはやりがいがあるが、よくこんなに毎日散らかせるもんだと感心すらする。それは仕事だったり趣味だったりさまざまだが、いずれにせよ集中している時の彼は迫力がある。普段は意外と人懐っこくて、「神田くーん」なんて甘えてきたりもするくせに。
 そう、近い。2人の距離だ。竜臣に呼ばれて神田がうっかり黒崎の目の前で近づこうものなら睨まれるし。仕事なんだから仕方ないというのに、営業妨害だ。まぁしかし、黒崎は大先輩だし、そこで余計な反感を買っても自分の立場が悪くなるだけなので、なるべく気を遣って適度な距離を取るようにはしているのだが、執事という立場上それも限界がある。仕事以外の時間の世話を任される執事に対し、運転手やボディガードはそうそうずっと張り付いているわけでもなさそうだし。
「……立場、逆の方が良かったかもな」
 俺が運転手で、黒崎さんが執事。その方が2人にとってもいいんじゃないの。無言で睨まれるの怖いんですけど。ていうか何で黒崎さんは運転手なんだろう。
「って、どうでもいいんだけどな」
 でも、ボディガードするならもっと体力が必要そうだ。神田は自分の腕を持ち上げてみて、溜息をついた。学生の頃からずっとバイトばかりで、部活なんてしていなかったこの体の筋肉なんて薄っぺらいものだ。
 黒崎も、直接は見たことないが服の上から見ても結構な筋肉を持っているだろう。それは男としてすごく羨ましいと思うし、そうでなければそんな役職は与えられないということなのだろう。
「筋肉か……」
 執事とボディガード、リストラされるならどっちが先だろう、なんてことを考えてしまうのはもう癖かもしれない。




「あれ、黒崎さん」
 神田は思わずベンチプレスの手を止めた。トレーニングルームに入ってきたその姿に目を見張る。
「おかえりなさい。早いですね」
 まだ3時過ぎだ。会社が終わってもいない時間である。
 半袖にジャージ姿の黒崎はすたすた入ってくると慣れたようにストレッチを始めた。
「まぁな。いつもの気まぐれだ」
「そうですか」
 肯きながら、睨まれなくて良かった、と内心ほっとした。無視でもされたらどうしようかと思った。結局、竜臣がいなければ大丈夫なのかもしれない。面倒臭いなぁ、と心底思う。
「あ、もしかして竜臣様、風邪が悪化しました?」
 だから早退したんじゃ、と尋ねると、黒崎は首を振った。
「いや、そういうわけではなさそうだ」
「そうですか……」
 良く見ている黒崎がそう言うのだからそうなのかもしれないけれど、しかしやっぱり心配だ。
 神田がシャワー室へ向かおうとすると、呼び止められた。
「珍しいな。お前がここを使うなんて」
「あ、はい」
 彼に話かけられる方が珍しい。思わず緊張してしまったが、Tシャツから覗く腕はやはり素晴らしい筋肉で、思わず見とれてしまうほどだ。
 彼は言った。
「鍛えるようにでも言われたのか」
 ハッと視線を上げると目が合ってしまった。意志の強そうな真黒な目がまっすぐに向けられている。
「いえ、そういう訳じゃないですけど」
 この人なら視線だけで相手を追い返せそうだ。そんな人を差し置いて自分がボディガードとか、勘違いも甚だしいな。
 そう思うと恥ずかしくなってきて、思わず苦笑いしてしまった。
「黒崎さんと俺、役職を交換した方がいいのかなぁと思いまして」
「あぁ? 何でそうなるんだ」
 だって執事の方がもっと竜臣様のそばに居られますよ。なんて、そんな無神経なこと言えるわけない。
「いやー、何と言っていいか……」
 言葉に窮していると、ふと黒崎が笑った。
 わら……笑った?!
「……」
 稀に見る光景に、思わずぽかんと口を開けていると。
「お前が守るのか? その腕で」
「で……ですよねー」
 そうか、馬鹿にした笑いか。そうだよな。
 あぁもう、言わなきゃよかった。恥ずかしい。
 一人赤面していると、腕を掴まれた。
「細い腕だな」
「えっと……すみません、身の程知らずなことを……」
 怒らせただろうか。こんな腕で守れるわけがないってことだろうか。竜臣様を守る役目は他の誰にも渡せない、とか、そういう意味なんだろうか。
 動けないでいると、熱い手の平がスッと上に上がってきて、二の腕を掴んだ。さらに動けなくなる。
「あの、黒崎さん?」
 この距離、見たことがある……
「―――神田君、こんなところにいたんだ」
 声がして、その手が離れた。
「あ、竜臣様っ」
 しまった―――
 ネクタイだけを外した竜臣は、ドアにもたれて腕を組み、にこりと笑った。
「君が片付けた本が見つからないんだけど」
「えっ、すぐ行きます」
 どうしよう。笑顔が何だか怖い。
『クビ』の2文字が脳内をループした。
 


 そりゃ、戻るのが遅れたのは俺が悪いけど、黒崎さんが近かったのは俺のせいじゃないだろ……
 理不尽な思いを抱きながらダッシュでいつもの服に着替え、書斎に向かった。まぁこの人の元では理不尽な思いなんて日常茶飯事なのだが。たとえ自分のせいでなくても結果が悪ければ誰のせいとか関係ないのが厳しい現実だ。
「もしかして、これですか」
「あー、それそれ」
 この本は3日前に場所を指定されて片付けた本だ。自分で言っておいて忘れているのだ、この人は。
「……」
 ま、いいんだけど。
 それよりも、さっきのことに怒ってないかが気になる。この人は分かりやすく怒ったりしない人だから未だに分かりにくい。むしろ黒崎のように睨んだりしてくれたらまだ分かりやすいのに。
「竜臣様、コーヒーでも淹れましょうか?」
 前のバイトのおかげか、コーヒーの淹れ方には少し自信があるのだ。彼にも褒められたことがあるし。
 広いソファに腰掛ける竜臣にそう尋ねると、軽く首を振られてしまった。
「いや、もういい」
「……」
 もう、という単語に引っかかった。
 それはどういう意味だ。もう一生、コーヒーを淹れなくてもいいと? それって、もしかして。
「クビ、ですか……?」
 やっぱり、怒ってるのだ。
「あの、お気に触ったのなら謝ります。だから―――」
 ぶふっ、と竜臣が噴き出した。
「え、ええっ?」
 笑うところか?!
「何、何でそうなるわけ、神田君」
「いや、だって、もういらないって……」
「あぁ、さっき会社で飲んできたところだから、って意味だし」
「そ、そうでしたか……」
 うわ、早とちり……
 熱くなる頬を隠したくて背を向けると、「で?」と竜臣は続けた。
「何を謝るって?」
 バサッと本をソファの上に置く音がした。思わず背を強張らせてしまう。
 謝ることがあると自分で白状してしまった。でも彼のことだから、きっと何もかもお見通しなのだろう。それなら誤魔化すだけ労力の無駄だ。
「……さっき黒崎さんと、一緒にいたことです」
「それだけ?」
「近づいてしまって……申し訳ありませんでした」
「そうだね、確かに近かった」
「わっ」
 突然腕を引っ張られた。ソファに座る竜臣の上にこけそうになり、慌ててソファに片膝をつくが、主の前でありえない格好だとさらに慌てる羽目になる。
「すっすみません!」
「これくらいだったかな」
 竜臣は腕を離すどころか、ぐいと神田の腰を引き寄せた。
 嫌がらせか、これは。
 いつ見ても綺麗なその顔が間近に迫ってきて、訳が分からず固まってしまった。
 やっぱり、そんなに怒ってるんだ……もう駄目かもしれない。精一杯尽くしてきたけどそんな理由で解雇なんて間抜けすぎる。ていうかそれなら本当にはじめから黒崎さんを執事にすればいいじゃないか。まったく意味が―――
「……へ?」
 意味が、分からない。
「ん?」
 にこ、と微笑まれて、神田は固まっていた頬をひきつらせた。
「い……」
 今のって、キス―――
「竜臣様」
「くっ黒崎さん!」
 やばい、見られた!
 しかもこの状況、俺が竜臣様を押し倒してるような……いやもう本当有り得ないですから!
「違うんですっこれは……!」
「どういうつもりですか」
 てっきり自分が睨まれるかと思っていたが、黒崎の視線はまっすぐに竜臣に向かっていた。
「どうって、こういうつもりだよ」
 離れようとする神田とは正反対に、竜臣はぎゅうっと抱きしめてきた。
「たたたっ竜臣様?!」
 良い匂いがする……じゃなくて。
「何してるんですか!」
 わざわざ恋人の目の前で……もしかして、ケンカ中とか? だから今日の帰り早かったのか? それで相手を怒らせようとしてわざとこんなことを……っていうか俺を巻きこむのはやめてくれ! これも仕事の内だなんて認めたくない……!
 泣きそうになっていると、黒崎によって引き剥がされた。
「約束が違いますよ」
 約束?
 何のことかと竜臣を見ると。
「んー、もういいじゃん、めんどくさい」
 出た、竜臣の口癖。つくづく社長らしからぬ口癖だ。
「はぁ? あんた何勝手なことを……」
 明らかに苛立った口調で黒崎が言った。
「く、黒崎さん……?」
 怒るのは分かるけど、タメ口はさすがに駄目でしょう。
 竜臣が立ち上がり、ハラハラと2人の様子を見守っていた神田の顔を覗き込んできた。
「だって神田君にあんな泣きそうな顔されちゃったら、ねぇ」
「はい?!」
 俺のせいかよ! ていうか一体何の話を……
「じゃ、俺も手出していいんですね」
 心地よい低音が耳元で響き、驚いて振り向くとすぐ真上に黒崎がいて、トレーニングルームで腕を掴んだあの熱い手が、今度はうなじを撫で上げてきた。
「なっ……」
 ぞくり、と震える体が、背後から抱きしめられた。チ、と舌打ちが聞こえる。
「ダメって言っても出すんだろ」
 竜臣の腕が腹部に回ってくる。
「というわけで神田君」
「っ、はい……?」
「今後、しっかり自分の身を守るように」
「は……はいぃぃぃ?!」





「はぁ……」
「あれ、どうしたの神田君」
 厨房へ逃げてきた。
 だって有り得ない、有り得ないだろこの状況……!
『フェアに勝負してたんだよ、どっちが神田君を振り向かせることができるか』
 竜臣が言った。『俺が欲しいのは君だよ、神田君』そして黒崎もそうだと言った。ことあるごとに2人見つめ合ってたように見えたのも、牽制し合っていただけとか。
「どう思います? 野原さん」
 夕食前の忙しい時間、野原は鍋を混ぜながらも一応ちゃんと相手をしてくれる。
「モテモテだね、神田君」
「いやいや、そうじゃなくてですね……」
 絶対何かの陰謀だ。あの二人が自分を好きだなんて有り得ない。きっとクビにしたいがために、自分から辞めさせるような状況に追い込もうとわざわざそんなことを……するような人達だろうか。
「で、嫌なの、神田君」
「……この仕事を辞める方が嫌なので」
「さすが、神田君。えらいね」
「いや別に、俺は自分のために……」
 味見、と野原がスプーンを差し出してきたので、神田は大人しく口を開いた。
「あっおいしい。生姜ですね」
「生姜たっぷり中華スープだよ」
 優しい野原の笑顔につられて、思わずふにゃりと笑ってしまった。
「俺、野原さんが一番好きです」
「またまたぁ。そんな可愛いこと言うとちゅーするよ」
「野原さんなら俺……」
「なんてねーそんなこと言うと奥さんに怒られるからねー」
「ですよねー」
「じゃあ神田君は誰に怒られたいのかな?」
 ぬっと背後に現れた影に、神田は立ち上がった。
「たたっ竜臣様?!」
「誰が一番好きって?」
「いや、あの……」
 と、その向こうには黒崎の姿が。
「も、申し訳ありませんでした……!」
 あれ、俺、何に謝ってるんだろう。

 この仕事、続けても大丈夫だろうか……
 神田の中で初めてそんな迷いが生まれた。




■END■


ばればれな展開で申し訳ない…でも楽しかった。
というわけであまりにラブがないのでちょこっとだけ続きを…
三角関係苦手な方は好みの方だけ読んでください。
両方OKって方は上から順に読んでくださいな。えろはないです。

⇒旦那様編
⇒運転手様編

ちなみに野原さんは55歳妻子持ち。