***bubble 01 |
「た、大変だぁ!!」 今日の授業も終わり、バイトまでの時間を友人と話しながらまったりと過ごしていた講義室に、大層な声が飛び込んできた。 「何だよ藤波、またふられたのかー?」 「いい加減慣れろー」 面白そうに野次を飛ばす集団へと、注目の人物・藤波はふらふらと近づいていく。日頃よくつるんでいるその目立つ集団に藤波はすとんと溶け込み、大仰に肩を落とした。 「環境のレポート、出してない……」 はぁ?! と後ろの席の俺まで声に出してしまいそうになった。 「お前何してんの?! それ試験代わりの奴だろ?」 「単位どーすんのよ」 「あったの忘れてたんだよ〜あーあーあー」 バカだなあいつ…… 会話だけを耳にして思わず溜息をついてしまった。聞き耳を立てようとしているつもりじゃなくても、あれだけ大きい声で騒がれたら聞こえてくるのは不可抗力だと思う。 「今週中に出したら考慮してやるって言われたけど……」 絶対無理だー、と藤波は嘆いている。 確かに、今日は金曜だから、土曜も入れたとしてもあと二日弱じゃあいつには厳しいかもしれない。しかも丸写しの通用する先生じゃないし。 「あーあ、カワイソ」 俺と話していた、まるっきり他人事なはずの友人、木谷にまで同情されている始末。憐れだな、藤波。まぁ自業自得ということだ。春休みだと浮かれすぎてたようだからな。 さて帰るか、と立ち上がったところで、講義室の後ろを仰ぎ見た藤波と目が合ってしまった。嫌な予感。無視しようと思っていたがそうはいかなかった。 「斉田君……!」 君って言うな。 思い切り嫌な顔を作りかけたがみんなの手前グッと我慢。藤波がダダッと階段を駆け上がってくる。この広い講義室は席が階段状になっていて当然後ろの席ほど高い位置にあるんだが、俺が座っていた一番後ろの席まで駆け寄ってきて、俺を捕まえた。そして必死の形相で言った。 「助けて!」 「断る」 「酷い斉田! ヒトデナシ!」 前方の席で笑いまくってる仲間も相当酷いと思うぞ。 「なぁお願い、手伝ってくれよ〜」 「何で俺なんだよ。あいつらに頼めばいいだろ」 「あいつら頼りになんねーもん」 「ひっでー、いつも代返してやってんのに」 「お代は弾むから! な!」 お代ってなんだよ。 「マジ頼む、このままじゃ俺に輝かしい春休みがやってこねーんだよ……!」 本当に、バカだよなーこいつ。そんなことをそんなキラキラした目で言われても。 だいたい、課題手伝うのは嫌いなんだ。そいつのためにならない、ってのは表向きで、要はお前だけラクしてんじゃねーよと腹立つから。 けど。 「な、お願いします斉田様ぁ……!」 無視しきれないのは、なんとかの弱みっつーやつだろうか。あぁ認めたくないけど。 「あーもう、うるさい。参考文献だけ教えてやるから、後は自分でしろよ」 「お、おぉ……!」 精一杯妥協した俺の言葉に藤波は一瞬微妙な顔をしたが、それでもだいぶマシだと気付いたのか目を輝かせて肯いた。 それを隣で見ていた木谷がぽつりと。 「不思議と仲良いよな。斉田と藤波って」 どきっとする。 「あ、バイト先同じなんだっけ?」 「あーうん、そう」 「いいな、楽しそうだな。俺も雇ってもらおーかな」 「んだよ、寂しいんだったらいつでも仲良くしてやんだろー?」 藤波が馴れ馴れしくそう言って、木谷の肩に手を回してもたれかかった。こいつはいつもそうだ。いつも、誰に対してもそういうスキンシップを軽くこなせる力を持ってる。 「重いだろ、バカ」 思わずその頭を叩いてから、俺が叩くのは不自然だったかと内心動揺してしまう。が、木谷はそんなに気にした様子もなかった。その代わり、藤波の 「ってーな、斉田」 むっと曲げられる唇の赤さに、思わず視線をそらした。 いくら気に食わないと言っても、しかしその馴れ馴れしさがなければ俺とこいつもずっと接点ないままだったに違いない。 声をかけてきたのは藤波からだった。 一昨年――入学した年の初夏。 必須の英語は受講生が多いのでこの広い講義室を使うのだが、いつものように後ろの席に座っていると、名前を呼ばれた。 『斉田ぁ』 妙に語尾を伸ばした言い方と、呼ばれ慣れない声に不審な感情を滲ませて顔を上げると、隣に座ったのが藤波だった。明るい茶髪に明るいピンクのTシャツ、そしてネックレス。こんな派手な奴がなぜここに座るのか謎だったが、それよりもっと謎なことをこいつは言い出した。 『斉田って、下の名前なんての?』 というか苗字なんで知ってんだ、と思ったが、別に隠す必要もないことだし素直に答えた。そういえば同じ授業をいくつか取っていたのを思い出す。 『……享介』 『あー、残念!』 『何が?』 『名前、ミツヤだったらおもしれーのに』 『は……?』 『英語で自己紹介する時にさ』 ミツヤ? マイネームイズ・ミツヤ・サイダ。 『……うわ、つまんねー』 心底呆れた俺に、藤波はケラケラと笑った。 『お前、初対面のクセにひでー言い草だな!』 『そりゃこっちのセリフだ、バカ』 『なんだとー』 だいぶ後で、その時なぜ隣の席に座ったのかと聞けば、彼女と別れたところでむしゃくしゃしてたとか言う。『知らない奴と喋りたい時ってない?』『そういう時はしゃべらねーし』『ムリムリ、黙ってるなんて!』『放浪の旅に出たくなるとかならわかるけど』『あ、でも近いかもー』 ずっと人当たりよく生きてきた俺にとって、こいつだけは何だか違って、不思議と何でも言えた。いろんな意味で特別で、それがこんな風に形を変えるとは思ってもみなかったけど。 「なー藤波、日曜飲み会すんだけどね、どーする?」 前の席にいた藤波の友人、嘉島がやってきた。飲み会といってもどうせ合コンなのは目に見えてる。嘉島は自分がもてるのを充分自覚した上で頻繁にそういう場を開いている。集まる男は当然同じようなタイプばかりだから俺は誘われたことはないが。もっとも、俺が藤波とつるんでること自体快く思ってないようだ。まぁ、無理もないけど。俺も自分で不思議だし。 あえて目をそらしていると、藤波のあっさりした声が聞こえた。 「ワリー、俺やめとくわ」 「えー、最近付き合い悪いな。彼女できた?」 「ちげーよ。俺だって忙しーんだよ、いろいろと」 「だよなぁ。お前彼女できたら真っ先に言いふらすもんなぁ」 「はぁ? 言いふらしてねぇし!」 バカだな。『今日はりえちゃんとカラオケー』とか大声で言ってたら言いふらしてるも同然だってことまだ気付いてなかったのか。 「はいはい、じゃ次こそは来いよな」 「おー」 ぽんぽんと藤波の腰を叩いて嘉島は講義室を出て行った。 駄目だ、全然落ち着かない。 ***** 『好きなんだけど』 酒のせいか何なのか、どっちつかずの赤い顔であいつが言い、俺は正直冗談だと思っていた。何か様子が違う、と思ったのは、じゃあ付き合う? と俺が言った後のあいつの反応だ。てっきりいつものノリで流されるもんだと思っていたのに、藤波は綺麗な二重の目をいつも以上に見開いた。そして、マジで? と言った声が少しうわずっていて、潤んだ目がどこか不安げで、本当信じられないことにその時俺は、抱きしめたいとか思ってしまったのだ。俺って男もいけたのかとか、顔が良かったらいいのかとか、いろいろ悩みもしたが、思えば藤波ははじめから特別な存在で、その気持ちが微妙に変化しているだけかもしれない、またこれから変わる時がくるのかもしれないと思うようにした。 だいたい、こいつが女好きである以上本気にするのもどうかという気はあったし。 だけど、男だって分かっているのに、ふと見せる表情がたまらなくなってキスしたことも何回かある。そのうち一回だけ、クリスマスの時はあいつからで、俺が柄にもなく上げたプレゼントに喜んでのキスだった。あの時はかなりやばかった。あいつの唇があんなに気持ち良いものだとは知らなくて抑えが利かなかった気がする。呆れられてたかもしれないと後々自己嫌悪に陥るくらいだ。あぁこいつはもっと経験ありそうだからこんなキス遊びとしか思われてねーのかなとか、付き合うとか実は冗談なんだろ、とか。 確かに全然優しくできないけど、あいつのことは好きだと思う。けれど生まれてこの方自然と培われてきた、無意識に相手に合わせてしまうこの性格は、あいつだけは対象外だと思っていたのに、全部が全部そうでもなかったらしい。 だってあいつが一言飽きたと言えばこんな関係ゼロにする覚悟はしている。 ***** 「聞いたよ藤波君ー、レポート落としたんだって?」 バイト先の控え室。二人して少し早く着いたので時間をつぶしていると、仲里さんが入ってきた。 開口一番がそれか、と藤波はポップを書いていたマジックペンの先を彼女に向ける。 「失礼な! ちゃんと出したっての」 「あ、そーなんだ。良かったね間に合って」 「まったくだぜ。もう俺に春はこないんじゃねーかと思ってたからな」 と言いながら桜の花びらをペンで散りばめている。 よく言うよ。結局俺も資料抜粋してやったりとか、なんだかんだと手伝ってやったりしたのだ。本当にこいつは世話が焼ける。 「あれ、ミカちゃん前髪切った?」 藤波の声につられて、俺は読んでいた漫画雑誌から顔を上げた。二人分の視線を浴びて彼女は照れたように前髪に触れた。 「あ、分かる?」 すると藤波はアハハと笑って、 「何かほら、コケシみたい」 「ちょっと、何それ! 最低!」 お前、それは駄目だろ。仲里さんの代わりに藤波のスタイリングされた頭を叩いてやった。 「イテッ! んだよ斉田!」 痛くないだろ、雑誌なんだし。 「いいじゃん、可愛くて。似合ってるよ」 フォロー半分本音半分で俺が言うと、仲里さんは赤い顔を俯けた。 「そ、それはちょっと言い過ぎだよー」 こういうセリフは藤波の分野じゃないのか。言い慣れてないから歯が浮く。第一藤波が気付いてなかったら俺は気付いてなかったと思うし、言うタイミングもなかっただろうし。こいつはそういうところが女子並に鋭い。それがもてる秘訣なのか、些細な前髪の変化や服装の違いに鋭く気付いてきちんと声をかけることを忘れないのだ。それがまた頑張ってる様子もなく自然と出てくるみたいだからもう性格なのかもしれないけど。 とはいえ、コケシはないだろ。だいたいこいつ、女の子には優しさを心がけてるくせに、彼女だけは特別だよな。 「……」 思わず目を向けると、藤波もこっちを見ていた。なぜかこちらも不機嫌そうだ。 「ほんと、斉田君は優しいよね。藤波君も見習いなよ」 仲里さんに言われて、藤波はますます声を荒げた。 「俺だって優しいじゃん」 「ダメダメ。藤波君は対象外って認識した女子には優しくないから、アウト」 「何だよそれー」 よく見てるな、意外と。 「その点斉田君はすごいよね。皆に優しいから」 「そんなことないって」 その代わり、肝心な子には優しくできないけどな。 「それとも、彼女には特別優しいの?」 仲里さんの口調が、微妙に歯切れが悪くなった。前髪をいじる手で顔が見えない。 これはもしかして、今現在の彼女の有無を聞かれてるんだろうか。藤波と違って至極平々凡々な人生を送ってきた俺はこういう感情を向けられるのにも慣れてなくて、決してうぬぼれちゃいけないと分かってるんだが。 はぐらかすように「そんなことないよ」と言いかけた俺の声を、藤波の笑い声が遮った。 「そりゃーもちろん彼女は別格だよ。な?」 そう言って肩をバシバシ叩いてくる。 「……」 「そ、そうだよね。ごめん変なこと言って」 彼女はさっとエプロンをつけると、フロアへ出て行ってしまった。 何のつもりだ、こいつ。もしかして嫌味か? 「お前なぁ……」 何もあんなこと言う必要なかっただろ。 文句を言いかけたが、言えなかったのは。 「バーカ!」 と、さっきの俺の三倍くらいの力で頭を殴られたからだ。 「いってーな! 何だよいきなり!」 「知るか!」 意味わかんねぇ。 何でお前まで傷ついた顔してんだよ。 どうやら奴の機嫌を損ねたようだ。危機を察して俺は休憩時間に控え室へは戻らなかった。今は春休みなので一日のバイト時間が増え、休憩が与えられるのだ。2月の風はまだまだ冷たいが、俺は店の裏まで煙草を吸いに行った。店内禁煙なのだ。表入り口の外には客用の吸殻入れ、裏口には社員用の吸殻入れが設置されている。 彼女じゃなくて彼氏なら、って言えばよかったのか? なんてことを考えてみる。 言えるわけない。自分だって誰にも言ってないくせに。あいつは絶対女好きだから、俺と別れたらまた女と付き合うだろう。そうなる前にホモだって広まったら取り返しつかないことになる。――あぁ、違う。そんなことはこじつけた後付の理由でしかない。だから、もっとそれ以前の問題で。 要は、俺に自信がないんだ。 だって女の子にも好かれる自信がない俺のどこにお前に好かれる理由があるんだよ。 「――こら、ヘビースモーカー」 びっくりした。飲み込みそうになった煙を吐き出して振り返ると、藤波がエプロンのポケットに両手突っ込んで立っていた。 「よくこんな寒いとこで吸ってんな」 むすっとした顔は相変わらずだ。 「……何だよ」 そんな寒いとこに何の用だよと俺が問いただすと。 「さっき……」 「ん?」 「結構、強く殴っちまったし……」 控え室でのことか。 「様子見にきてやったんだよ、バカ」 「バカは余計だ」 「なっ、人がせっかく謝ってやってんのに!」 「それが謝る態度かよ」 当たり前のことを言ったにも関わらず藤波はむっと口を曲げている。でもその怒り方はさっきまでとは違うのは明らかだった。 目をそらして精一杯何気ないフリしておきながら、構ってオーラを漂わせている。そういうところがたまらないと思う。確かに、こいつは喧嘩しても翌日にはケロッとしてるやつだった。気にする方が負けなんだよな。 笑いそうになるのを抑えて、俺は持っていた煙草を灰皿で消した。この顔を見たからだろうか、胸に圧し掛かっていた重みまで一緒に消えた気がした。 自分でも本当に謎だ。全然優しくできないくせに、どうしてこんな感情がわいてくるのやら。 「――そういえば、レポートのさ」 忘れていたわけじゃなかったのだが、俺はふと切り出した。 「礼、まだもらってなかったよなぁ?」 「……あ」 忘れてたのかよ。『お代は弾むから!』って自分で言ったくせに。 「結局あれだけ手伝ってやったんだから、相当弾んでもらえるんだろうな?」 「あー、うーん、そうだな……」 何て奴だ。マジで何も考えてなかったらしい。 藤波は両手を胸の前で組んでエヘッと笑った。 「俺のあつーいキッスとかで、どう?」 「はぁ? どんな安いお代だよ」 「ヒドイ! 俺の体は安くないわよ!」 こいつ、一文も使わねー気だな。こいつのこういうセリフはいまいち本気か冗談かつかみきれないところがあるから持て余すのだが、結局いつも乗せられるのだ。 「別にいいけど、その代わり……」 「なに?」 「あつーくなかったらやり直しな」 「おっし任せとけ!」 自信満々に胸を叩いて、藤波は俺の肩に手を置いた。焦るのはこっちの方だ。 「って、今かよ?」 どこだかわかってんのか。バイト先で、しかも外だぞ。 「うるさいな」 あっという間に近づいた藤波の顔は、ムッとした目で俺を見上げた。そしてすぐに伏せられたその長い睫毛の下がわずかに潤んでいたのに気付いて、俺はひどくうろたえてしまった。 冗談だか本気なんだか、いつも騙される。そしてこんなこと一つで落とされるんだ。 「ん……」 微かに声が聞こえ、柔らかい唇が触れた瞬間、理性が飛びそうになった。 ――が。 「―――え?」 だから、場所が悪いと言ったんだ。 ガサ、と物の落ちる音が俺の背後でした。 焦って体を離す藤波とは反対に、そういえばゴミ置き場あったんだっけ、と、妙に冷静に考える自分がいた。 「何で……」 「や、違うんだって、ミカちゃん!」 藤波が慌てて声を張り上げた。 呆然とする仲里さんの誤解を解くように、必死に言い訳しているが。 「今のは、あのほら、友達のチューだから!」 って、それはちょっと無理があるんじゃないか? やっぱバカだな。聞いてるこっちも思わず頭をかかえたくなってしまった。もうなんというか、居たたまれないとはこのことだ。 「……本当に?」 「そうそう! 冗談だし、冗談!」 「……」 いくらごまかすためとはいえ、ここまで言われると少々面白くない。もういいだろばらしても、と、投げやりな気持ちが沸いてこない事もなかったが、必死に否定する藤波を見てるととてもじゃないがそんなことできなかった。だってこいつにとってはそこまでして言いたくない関係ってことだ。だったらもうやめた方がいいんじゃないか? それとも、もうなかったことになってるのか? 「だったら、私にもできるの?」 仲里さんが言った。 「え?」 「キス……友達だったらできるんでしょ?」 「み、ミカちゃん?」 「だったら、してよ」 彼女は藤波に一歩近づいた。それは喧嘩腰とも取れる口調で、分かった上での挑発だと思っていたんだが。 「……いいの?」 藤波が言った。まさかとは思ったが、考えるより先に体が動いていて、俺は藤波の肩を掴んで彼女から引き離していた。 そして咄嗟に言ってしまった。 「それって、俺じゃ駄目なの?」 「っ……!」 バカなことをしたと思ったのは、彼女の真っ赤な、泣きそうな顔を見た瞬間だった。 最低、と小さくつぶやいて走り去っていく。それを引き止めることもできなかった。 「……」 あぁもう――いろいろ最低だ。 その日はバイト上がりがお互い別の時間で、次の日は俺がバイト休みで、大学も春休みなもんで、藤波とはきれいさっぱり顔を合わせる事はなかった。いつも飯やら誘ってくるあいつにとっては珍しいことだが、しかし俺としては藤波はともかくとして、仲里さんに合わせる顔がないのが現状だ。傷つけてしまったかもしれない。いや、明らかにそうだろ。だって『友達でキスできるんだったらしてよ』と言われて俺が名乗り出たということは友達としか思ってないよというアピールだと思われたんじゃないか。本当のことだから間違ってはいないのだが、それってそもそも告白もされてないのに遠まわしにふったなんてことになるんじゃないか。そりゃ最低だよなぁ。咄嗟にとはいえ、何であんなことを言ってしまったんだろう。 あー、胃が痛い。 山を作りつつある吸殻入れに灰を落としていると、玄関のチャイムが鳴った。しかも、連打。犯人はあいつしかいない。 「――うるせぇな」 「うっわ煙草くさっ」 ドアを開けるなり、藤波は顔をしかめた。 「……お前も相当酒臭いぞ」 「だって飲み会だったし」 「あーそう」 合コンか。にしては、まだ九時だ。 「……」 いつもずかずか入ってくるのに、奴は玄関で立ち止まっている。 「何だよ、気分でも悪いのか?」 俯く顔を覗き込もうとすると、藤波は俯いたまま俺の胸に額をくっつけてきた。本気で気分悪いのかと思ったが、どうやら違うらしい。 「何だよ、言ったくせに……」 「え?」 「他の奴と飲みに行くなって、言ったくせに、何で怒んねーんだよっ」 「……」 何だ、それ。 そんなセリフがこいつの口から出るなんて予想もしてなかった。だから、思わず取ってしまった行動も当然、予想外のもので。 「あっ……」 抱きしめた自分に自分で驚いてしまった。ジャケットのファーがふわふわくすぐったい。 「おっ……俺は怒ってんだぞ!」 腕の中で藤波がもがく。それでも本気で腕をほどく様子はないことにひどく安心してしまった。 「何でお前が怒ってんだよ」 飲み会行くなって、あの時は虫の居所悪くて思わず言ってしまったけど、もちろんこいつにそんなことは不可能だと反省したから撤回してんのに。 「だから、それだけじゃなくて……」 昨日のことだよ、と、藤波。 それこそこいつが怒る意味がわからない。別に、俺がバカなこと言っただけでこいつが怒る理由なんて全然…… 「お前、ミカちゃんのこと好きなんだろ!」 「……は?」 えっと……うん? 「まぁ、友達って意味じゃ好きだけど?」 「は?」 いや、こっちが聞きたい。 「じゃあ何でキスしたいとか言ったんだよ」 「したいとは言ってねぇだろ……」 いや、でもそういう意味か。『それって、俺じゃ駄目なの?』 「何であんなこと言ったんだよ」 「何でって……」 そんなの、決まってるだろ。いちいち言いたくないんだけど。 けど、言わないとこの目は許してくれそうもない。 俺は腕を離して、その強い視線から逃げるように顔を背けた。 「そんなの、お前にさせたくなかったからだろ」 お前が、本気で彼女にすると思ってたわけじゃなかったけど、それでも咄嗟に出てたのだ。反射的なものだったのだ。 「だから、何で?」 「は?」 「どっちが嫌で? ミカちゃん? 俺?」 「お前なぁ……」 人がせっかく意を決して教えてやったってのにまだ言うか。 言っても伝わらないなら手段は一つだ。 俺は少し背をかがめて、一段低い玄関に立つ藤波にキスをした。 「んっ……」 頬が冷たい。触れた唇も冷たくて、思わず舐めると、かすかにビールの苦い味がした。びくっと肩が揺れたが、でも、逃げる様子はない。 許されるくらいには好かれてると思ってもいいのか。 「いい加減、わかるだろ……」 抑えが利かなくなる前に唇を離したのに。 「わかんねーよ!」 「おわっ」 体当たりされ、玄関先に尻餅をついてしまった。 「てめぇ何っ――」 「そんなんじゃわかんねー」 そう言って、藤波は俺を押し倒して唇を重ねてきた。 さっきよりも、もっとずっと長いキスを仕掛けてくる。なんだ、抑えなくてもよかったのか。 「――レポートの礼か?」 隙が出来た間に眼鏡を外し、尋ねると、藤波は濡れた唇を舐めて笑った。 「あつーくなった?」 「……」 「あ、硬い」 馬乗りになってるこいつには俺の変化は一目瞭然だ。 「この……誰のせいだ」 「俺のせい?」 「他に誰がいんだよ」 減らず口に手を伸ばす。親指でなぞった赤い唇はニッと笑みの形を作った。 「すげーうれしい」 「……」 こいつは本当に……分かってやってんのか。 たまに素直にされると心臓に悪い。 藤波は俺に乗ったまま、ジャケットを脱ぎはじめた。 「なぁ俺も、熱くなってきた……」 誘ってんなーと明らかに分かるのに、それでも理性揺らがされてるのってどうなんだ俺。相当やばいと思う。 そう思ってるのにますます反応してしまう俺の半身の上に、藤波の体重が移動した。 「お前っ……」 「わー、カチカチじゃん」 「っ……」 俺の腹に手を置いて、ぐいぐいと自分の股間を押し付けてきた。布越しなのに半端なく熱い。下から見るとそれはまるで入れてるかのような体勢で、眼鏡かけてなくても視覚的にかなりくる。 「このままイク?」 「ふざけんな」 「どっちが早いか、競争でもするか?」 「お前な……」 「あー自信ないんだー?」 もちろん早い方が負けな、と藤波。 またこいつは、くだらないことばかり言いやがって。 「勝ったら何かくれんのかよ」 「んー、何がいい?」 「勝ったら……」 勝ったら、入れたい。 「何?」 「いや……何でもない」 「何だよ、言えよ」 やっぱ言えない。ここで言えるようならとっくに手出してるっての。 だってずっと入れる側だったこいつに女役なんてぜったい無理だろ。俺だって入れられる心積りはないから、別に無理してまですることじゃないと思ってたんだが、こういう接触が増えれば増えるほど理性が言うこと利かなくなってきてる気がするのだ。だけどこいつは無邪気に誘ってくるし。何考えてんだこいつは。 「じゃあー、負けた方が勝った方にー、フェラとか」 あーそれなら別にどっちでも、と思ったりする辺り、あぁもう、末期だ。 しかし、勝負の世界は厳しいのだ。 「後悔するなよ」 「え?」 俺は藤波の体を持ち上げてポジションを反転させた。いつまでも好きにさせてたまるか。 びっくりした、と大きな目が俺を下から見上げてくる。その両手を床に押さえつけて、とっくに硬くなった自分のを藤波の体に押し付けた。 「んぁっ、ちょっ……ひどい」 無抵抗な人間になんてことを、と訴えてくる涙目が既にやばい。ぐりぐりと押し付ける下半身同様、喘いでる口も塞いだ。 「んっ…んぅっ……!」 この柔らかい唇も、鼻にかかった抑え気味の声も好きだ。本人には言わないけど。この唇で咥えられようものならたまんないだろなと考えてしまったせいで、思いの他負けられなくなってきてしまった。 「っ、はぁ……」 唇を、首筋へ滑らせる。顎を仰け反らせる姿態が妙に色っぽくて、思わず腰を止めてしまった。やばい、気を抜くといきそうなる。いつも口悪いし素直じゃないしだいたい喧嘩ばかりしてる相手なのにどうしてこうも百八十度の変化を遂げているのか、不思議でたまらない。と改めて思っていたら。 「斉田ぁ……」 涙目で懇願してくる始末。勘弁してくれ。 俺は肩口に顔を埋め、耳朶を軽く噛んだ。 「……いきたい?」 掴んでいた手にビクッと力が入る。それが面白くて、次は耳の後ろに舌を這わせると押し殺した声が漏れた。 「っ……」 「耳、弱いな」 「ばっ……んなこと……!」 「だって、ほら……」 軽く吸い付いただけで、重なった下半身がどくどくと脈打つのが分かる。 藤波は逃げるようにブンブンと首を振った。 「お前がっ……んなとこでしゃべっからだろっ……!」 なんだ、弱いのは俺の声か。――可愛いことを言う。 にやけそうになるのを我慢して、舐めた箇所にキスを落とした。 「いっ……!」 「いきたい?」 「ち、ちがっ……」 「いけよ……」 低音を意識して囁いてやると、組み敷いた体全身が震えた。 「あっ――」 ―――勝った。 と、柄にもなく喜んでしまう自分が情けない。 「……ひ、ヒドイ、もうおうち帰れない……」 何だそのキャラは。自分から勝負とか言い出したくせに。 「服くらい俺の貸してやるだろ」 「……」 解放してやった両手でしばらく顔を押さえていた藤波が、覚悟決めたように顔を上げた。 「よし――してやろう」 「その前に脱いどけよ」 今のは覚悟を決めてた間か、と思うと、改めて照れくさくなってきてしまった。 「いや、いい。お前のが一刻一秒を争うだろ」 「大袈裟に言うなよ」 「そんで俺の覚悟も鈍る」 「あのさぁ……」 俺のジャージを下ろしかけた藤波が、ん? と顔を上げた。 「無理してまでしてほしいとか思ってねぇよ、俺は」 確かに、してほしくないと言ったら嘘になるが、こいつに負荷をかけてまですることかどうか、そんな関係なのかといった疑問があるのだ。 「……」 藤波の表情が固まって。 「バカ!」 頭を殴られた。平手だったからまだマシだが。 「ってぇな、何だよ」 「俺がしたいんだよ!」 「したいって……」 「だけどさ、初めてだったらびびるだろ? 何でもよ」 「あー、まぁ……」 「だから、黙ってされとけ」 そう言って、俺の下着から汗ばんで硬いそれを引きずりだした。そこまで言われたら見守るしかない。俺は後ろに手をついて、下がっていく藤波の頭を眺めた。 俺も、こいつのなら口で出来ると思う。そしてこいつもそうだってことは、同じ気持ちだと思っていいんだろうか。 「なぁ……まだ付き合ってる?」 「は?」 「だから、俺ら」 「……」 沈黙再び。あ、なんかヤバイ雰囲気―― 「いッ――!」 「お前っマジで無神経だな!」 力いっぱい握られてしまった。最悪だ。 「そうでもなかったらこんなことするかよ!」 真っ赤な顔で藤波が怒鳴った。 だってわかんねーだろ、ただでさえ男同士なんて不安なのに。一方的に怒られるのは腑に落ちない。 「じゃあ、なんで言えないんだよ」 「何を!」 「仲里さんに付き合ってるって」 「おっ、お前、ほんとに無神経な……!」 うるさいな、もう聞き飽きたよ。 「んなこといったらミカちゃん傷つくだろ! だってミカちゃんは、お前のこと……」 「あー……」 「ま、お前は自分で失言したけどな」 思い出させられて、再び落ち込んでしまった。痛さと相まって最悪の気分だ。 「にしても、あのごまかし方はどうだよ」 「うるさいなっ。じゃあどうしろってんだよ」 「どっちにしろ、ばれたよな」 「まぁ、な……」 「……」 「てかさぁ、お前、まだ疑ってたワケ? 付き合ってるとかその段階を!」 信じらんねぇ、と溜息をつく藤波。 「仕方ないだろ……」 自信なんてあるわけないんだし。考えれば考えるほど腑に落ちないことばかりだし。 「何でだよ。ちょっと考えたら分かんだろ?」 「わかんねーよ」 即答すると、頭をペシッと叩かれた。 「何で? だってこんなタバコ臭いのにキスしてやってんだぜ? 愛だろ、愛」 俺カッコイイこと言った! と一人胸を張っている。 「……」 愛か…… 愛があるんなら、いきなり握りつぶすのはやめて欲しいんですけど。 何だか、悩むのもあほらしくなってきた。 「あ、何溜息ついてんだよ」 「いや、明日謝ろうと思って。仲里さんに」 「はぁ? いやいやこんな時くらい俺のこと考えろよ!」 「つか今日お前来るまでずっとそれで悩んでたしな」 「なっ、お前というやつはー!」 そうだ思い出した。悩んでたんだ。 それがこいつの登場ですっかりうむやむになってしまった。結局すべきことは決まってるのに。 「だいたいなぁ、お前、悩みすぎなんだよ」 腕組みをして、妙にえらそうに藤波が言った。 俺も、そう思う。 |
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