■晴れの日


「森本、久しぶりだな」
「…………」
 たっぷり見つめて数秒後、出てきた言葉は見事、棒読みだった。
「どちら様ですか」
「おお、その冷たい言い方。変わってないなー」
「……」
 嘘だろう。
 はぁ、と深い溜息をつき、匡は皺が寄っているであろう眉間をぐいと指先で抑えた。
 本当に、どんな嫌がらせだ。まさか、よりによってこの日に出会うとは。
「あれっお父さん、染谷さんと知り合い?」
 とん、と細い指に背中をたたかれ、明るい声が飛んできた。真っ白なドレスの彼女は、何度見ても眩しい。
「お父さん?」
「あぁ、いや……」
 咳払いをすると、匡は娘の背を押した。
「学生時代のな。そんなことより写真撮るんだろ。皆待たせてる」
 親族一同の集合写真を今から撮るところなのだ。チャペルを背景にし、階段部分を利用して30名ほどが次々に並んでいく。
「そうだな。じゃあ、また後で」
 そう言うと彼は返事も待たずにテキパキと整列の指示を出し始めた。青いドレスの方前に出て、3段目の着物の方もう少し右に。的確な指示は慣れたものだ。そして三脚の上でカメラを構え、レンズ越しにこちらを見てくる。
「……」
 本当に、何でよりによって今日なんだ。



 式のカメラマンを頼んだのは蛍子本人だ。彼女は知り合いのカメラマンに頼んだと言っていた。出版社で勤めているので繋がりは広いのだろう、とは思っていたのだが、やはり世間は狭かったということか。
 それにしても、狭すぎだ。

「いやーめでたい。いいねぇ結婚式は」
「本日はどうもお世話になりました」
「おいおい何よよそよそしい。あ、怒ってる? お前密かに怒ると敬語になるの変わってないのな」
 わはは、と歯を見せて笑う染谷に、匡はまたもやイラッと眉間に皺を寄せる羽目になる。仕事では頻繁に寄せているが、まさか今日という日にまで。
「お前も、無神経なところは変わってないな」
 いや別に、怒ってるわけではない。そういうのではなくて、ただ、せっかく自分にとっても一生のうちで一番大切だと言っても過言ではない瞬間に、とんでもない不純物が混じってしまったという敗北感というか、屈辱感というか……と、それを怒っているというのか。
 親戚との挨拶も一通り終わり、ロビーの人口密度はたいぶ減った。肌触りの良い上品なソファに腰を下ろすと、当然のようについてきた染谷もネクタイを緩めながら隣に座った。
「まぁ、無理もないよな。大事な一人娘が嫁にいっちまうんだもんなぁ」
 寂しいよな、うん、と肯く染谷。
 何を分かったように。
 一瞥した後、匡は無言で目をそらした。続けて染谷は言う。
「一人になるもんなぁ」
「……」
 妻がいないことは式を見ていたのであれば言うまでもない。
 自分のことばかりが知られてしまった状況は甚だ不愉快だった。
「お前は。結婚」
 訊ねると、染谷は軽く首を振った。
「いや、してない」
「そうか」
 内ポケットから煙草を取り出し、火を付けた。いるか、と箱を見せると彼はもう一度首を横に振った。禁煙したのか、と目で尋ねると、何でもないことのように、
「肺をやられたんだ」
「……」
 そんなことを聞いてしまえば、このまま吸い続けていてはさすがに人でなしだ。テーブルの端に置いてあった灰皿を引き寄せながら軽く一口だけ吸うと、長いままのそれを押しつぶした。
 ふと隣を見ると、眺めるような視線を向けられていた。じわり、と急に背中が汗ばむ。もたれていたソファから上体を起こし、両膝に肘をついてうつむいた。
 帰ろうか、と思ったのと同時に、彼が口を開いた。
「変わってないな、森本」
 改めて聞かされるそれに、ふ、と笑ってしまう。だって何年会ってないと思ってるんだ。
「一応、変わってるつもりなんだがな」
 30年ぶりに会って、まったく変わってないだとか言われるのはかえってショックなものだ。
「そうか?」
 身じろぎした彼の肩が近づいてきて、香水か、整髪料か、嫌味でない程度の芳香が漂った。こんなのつける奴だったか、と若干の違和感が胸をよぎる。
 気がつくと、剃った髭痕まで見える距離まで近づいていた。
「何だよ、」
「あぁ、皺は増えたな」
「うるさい。お前もだろ」
 仕方ないよな、歳には敵わん。そう言って笑う低い声は、確かに変わってないな、と思う音色だった。



 染谷さん、と呼ばれていた彼は、同学年の学生より二つ年上だった。留年していたのだ。二年無駄にしてまでこの大学に入る意味が分からない、と言った匡に、彼は実に良い笑顔で笑った。分からなくて当然だ、お前は俺じゃないんだから。
 いつからか、匡が染谷に「さん」をつけなくなった頃からよく話すようになった。話すようになったからつけなくなったのかもしれない。染谷はもともとかなり自由奔放な行動をする男であり、加えて多少無神経だったが、見ている分には面白い人間であったし、友達として付き合うには問題がなかった。なかったのだが、それはあくまでも自分が関わらない限りは、という話だ。
 若干血の気が多く、手の早かった匡が初めて彼に拳をお見舞いしたのは、2年の時のとある飲み会でだった。
『森本お前さぁ、整形しない?』
『はぁ? セイケイ?』
『そ。整形』
『てめぇ……歯ぁ食いしばれ』
 左頬にヒットした。
 悪かったな酷い顔で、違うそういう意味じゃなくて、顔が気に食わねんだったら見なきゃいいだろ、いやその反対気に食いすぎるんだって、お前の日本語は理解できん、だからその顔が好みすぎるから困ってんだよ。
 しこたま飲んだくせに意外とはきはきした口調でそんなことを言い切ってしまう奴に「だったらお前が俺の前から消えろ」と言ってその日は帰った。まさか、それが一週間後には叶うことになるとは思わずに。
 何でも、大学を中退して海外へ飛んでしまったという話だった。
 奔放にもほどがある。そしてそれ以来連絡はなかった。携帯電話もない時代だ。同級生の誰も行方は知らないと言った。
 実にそれきりだったのだ。



「――いつ日本に?」
「あぁ、5年くらい前かなぁ」
「じゃあそれまでずっと海外暮らしか」
「まぁ、そんな感じだ」
 大したことないような口調で言いながらその顔にはまったくもって晴れ晴れとした色が浮かんでいる。それは思わず羨ましいと思ってしまうほどで、そんなことは絶対に言わないが、少し腹立たしかった。20年以上の海外生活だなんてこちらには想像もつかない。やはり違う人種なのだ。スーツを着ている状況は同じなのに、シャツの隙間の褐色の肌が匂わせる雰囲気からして、アウトドアなんてものとは一切無縁の自分とは全く違う。
「お前は部長さんだってな、出世してるねー。俺はまぁ、いろいろやってはみたんだけどな」
 フリーのカメラマンだ。
 合ってるんじゃないのか、と思ったがあえて言わなかった。むしろこの男が自分と同じ一般企業のサラリーマンをしていると言ったならその方が驚く。
 だって大学の頃から彼はカメラ人間だった。バイトした金で買った中古のカメラだ。他人が触ると怒るくせにいつも持ち歩いていた彼はさらに学内で目立つ存在になっていた。
 被写体にこだわりはなかったようだが、匡も一度だけ撮られたことがある。匡は写真が嫌いだったので甚だ不本意だったが。
 そう、そもそも状況が不本意であった。ある日、彼の家で皆で飲み明かした翌朝だ。風呂上がりの、頭からタオルを一枚かぶっただけのほぼ裸の状態を、不意打ちで一枚撮られたのだ。ありえない。
 ふざけるなフィルム寄こせ、とカメラを取り上げようとするとしばらく取り合いになり、攻撃を防ごうとした染谷の手が裸の腕を掴んだ。火照った腕を、冷たい掌がするりと這った。妙な瞬間だった。絡んだ視線は一瞬静寂を生み出し、匡が思わず腕を引くとその手も視線と共に離れた。――だってお前普通でも撮らせてくれないだろ、俺を撮る意味がわからん、お前には分からなくていいんだよ。視線が合わないままの押し問答。居心地の悪さのせいか、やけに覚えている。いや、今思い出したのか。いなくなる1カ月ほど前のことだった。


「――にしてもお前、落ち込みすぎだろ」
 腕を組み、染谷は呆れたように言った。
「……何?」
「もっとうれしそうにしろよ。せっかくの晴れの日なんだしさ」
「お前な……」
 誰のせいだと思ってるんだ。
 思った瞬間、自分を殴りたくなった。自覚するのは認めているという証拠だ。
 どうしてこっちばかりがこう思い出しては気分を害さなくてはならないんだ。向こうは忘れているに違いないのに。馬鹿げてる。
 そうだ、忘れてるに決まってる。
「――お父さん」
 肩を叩かれて振り向くと、カジュアルなワンピースに着替えた蛍子が立っていた。片付けが終わったのだろう。今日は夫とこのホテルに泊まることになっている。
「ずっと染谷さんとしゃべってたの? 仲良かったんだねー」
 そう言って、母親似の二重の目をにこりと細めた。
「いや、そういうわけじゃ……」
「いやーそれほどでも」
「あ、染谷さん今日はありがとうございました! 写真楽しみにしてますね。ほんとにうれしい、染谷さんに撮ってもらえるなんて!」
 蛍子の幸せオーラ全開の笑顔を見ていると、少しずつ現実に引き戻されていく。早くに母をなくして苦労をかけてきた一人娘だ、寂しくないわけがない。目出度いはずなのに泣きたくなるなどという複雑な感情を味わうことになるとは思ったことがなかった。ただ今日は、そこに更なる複雑な感情が邪魔なことに混じってしまったけど。
「明日から旅行だけど、ごはんちゃんと作りなよ。毎食コンビニは駄目だからね」
「分かった分かった。もう聞き飽きたよ」
「もう、心配してるのに……あ、染谷さん良かったらまたうちにも遊びにきてくださいね。父も喜びますから」
「ほんと? じゃあ喜んで」
「そんなことより蛍子、早く浩介君の所へ行ってあげなさい」
「はいはい分かってますよ。じゃあね、お父さん。行ってきます」
「あぁ……行ってらっしゃい」
 軽く手を振る彼女を見送ると、一瞬胸が塞がるような苦しさを覚えた。
「……」
「胸貸そうか?」
「いらん」
「残念」
「……いつまで居るんだ、お前は」
 カメラマンのくせに早く戻らなくていいのか。
 匡の言葉には返さず、染谷は彼女が乗っていったエレベーターをぼんやり眺めた。
「良い子だな、蛍子ちゃん」
「当然だ」
 親しい呼び方をするなと注意をしたかったが、森本さんと言われても微妙だ。いや、もう森本ではないか……そこまで考えて、匡ははっと顔を上げた。
「お前まさか、知ってたんじゃないだろうな」
 言ってから、馬鹿なことを言ったと後悔した。だいたい森本という名字はそう珍しくもないし、母似の彼女と自分の顔が似てるとも思えない。
 染谷は軽く首を振った。
「彼女の出版社で初めて出会った時はまったく気付かなかったけど」
「……」
 嫌な予感。
「名刺もらった時にな。彼女が俺の写真を好きだと言ってくれて……名前も同じだ、って言ってくれた時にね」
 ――染谷さんのお名前、蛍(けい)って、本名なんですよね? うれしい、私も同じ漢字なんですよ。
「蛍子ちゃんの名前は奥さんが決めたわけ?」
「……」
 一呼吸おいて、少し肩をすくめて見せた。
「たいした自惚れだな」
 外した視界の中に入ってきた手が匡のネクタイを掴み、顔を覗きこんできた。
「なぁ、誰?」
「っ……!」
 ネクタイを掴み返すと、染谷の体が少し浮き上がった。右手の拳を思わず固める。
「ストップストップ、落ちつけって」
 我に返り、匡は手を離した。口元を抑え、ソファに沈み込む。
 殴るところだった。こんなの何年振りだ。
「お前ほんっと手早いな。久々にくらいたい気もするけど場所考えろよ」
 わはは、と染谷が笑った。
 そんな顔を見てしまうと馬鹿らしくなってくる。匡は苦い気持ちで唇を歪めた。
「お前こそ……口が早すぎるんだよ」
「どこが。こんな慎重な俺をつかまえてよく言うよ」
「あぁ? それこそどこが――」
「一応これでも30年考えたんですけどね?」
「……」
 ―――あぁ。俺はこの目を知っている。
 ファインダーを覗くように、まるで被写体が逃げないようにじりじりと、全神経を張り詰めて慎重にそれでいて確実にまとわりついてくる。
 逃げたのはどちらが先だったか。避けたのは自分。離れたのはこの目。
 結局同じことで、そして。
「――まだ好みか、俺の顔」
「残念ながら、その通り」
 忘れていないのはお互いだ。
「呆れた奴だな」
「だよな」
 諦めのような、妙に落ち着いた気分だった。
 染谷はニッと笑った。
「さらに残念なことに、顔だけじゃないんだけどな」
「お前、30年考えたことがそれか」
「いいや」
 それは前から分かってた。
 だから、なんでよりによって今日なんだ、という話だ。見えない力を恨みたい。
「――帰る」
 立ち上がり、さっき押しつぶした煙草の火がちゃんと消えていることを今一度確認する。もう一度火がつくなんてありえないけれど。
「なぁ、俺も行っていいか?」
「……」

 とりあえず帰ったら、一発殴ってやろう。


■END■