■青い

 どうしようもない男とばかり付き合ってきた。
 暴力や金や夜の性癖や、どうしようもないポイントは様々だったが愛があるなら我慢しようと思ったのも始めのうちだけだった。身の危険を感じたらそんなこと言ってられなくなってくる。しばらく男はうんざりだと女に走ったこともあったが、結局自分は真性なんだと改めて自覚したのが30の時。今度こそはと覚悟して付き合った男は、共同出資して建てた飲食店の金を持ち出して半年後に蒸発した。そんなこんなで今、35。目の前の男は泳げそうなほど青い目で俺を見つめてこう言う。

「愛してるよ」
「……へぇ」
 会う度にこれだ。まるで儀式。それどころか、飯を食う前に言われるからもういただきますと同じ意味だろうという気すらしてくる。そんな習慣を持つ国とか探せばありそうだ。言ってる本人はイギリス人だが。
「それより、美味い?」
「うん、カオルのご飯は本当においしいね」
 聞き取りやすい日本語を発し、箸で豚汁の大根を挟んでいる。そういう勉強熱心なところは感心しているけど。
「そうやって『何食べてもおいしい』って言い方は困るんだけど」
 俺が言うと、ジェイは大げさに目を見開いた。
「本当だよ! 本当に全部おいしいんだよ」
「ふぅん」
 つまらない。嘘、少しはうれしい。
 頬杖をついて食べる姿を眺めていると、目が合った。
 そういえば、昔から青い色に弱かった。雲一つない晴れた日の空や、澄んだきれいな海を見ていると、逆らえないような、飛び込んでしまいたいような気持ちになるのだ。
 ジェイは少し身を乗り出して、真向かいに座る俺にキスをする。
「……早く食えよ」
「うん、ありがと」
 にこ、と幸せそうな顔でジェイは笑う。本当に可哀想な奴だ。



「ねぇカオル、明日近所で夏祭りがあるんだって。行こうよ」
 風呂から上がるなりジェイが言った。上半身裸でタオルだけかけているその長身は筋肉がほどよく付いていて、張り詰めたその皮膚は見るだけでその皮一枚下に隠れている熱い脈動を思い出してしまう。
「夏祭り? そんなのあったっけ」
 あるんだよ、と言いながら、ソファでテレビを見ていた俺の隣に座り込み、体を寄せてきた。
「今日隣のオザワさんが教えてくれたんだ」
 あぁ、来る前ドアの外で何か話し声が聞こえると思ったら、また立ち話していたのか。ジェイは井戸端会議が好きらしい。俺の家に住み着いて早3ヶ月、彼はアパートの住人全員と顔見知りになってるんじゃないかと思う。ずっとここにいる俺ですら知らない人もいるのに。
「ねぇねぇ、行こう?」
 そう言って俺の腕を掴んで揺らしてくる。子供か、と言いたくなる仕草だ。まだ濡れている髪を見かねて拭いてやる。短い茶系ブロンドは目と同じくらい綺麗だ。
「うーん、めんどくさいな」
「何で! 楽しいじゃない、お祭り! 日本のお祭り大好きだよ」
「好きだなぁ、お前」
 そんな輝いた目を向けられたら悪人みたいな気持ちになってくるじゃないか。この体格に似合わず年相応に見えないのはおそらくその好奇心旺盛すぎるところによるんだろう。見るものすべてに興味を持ち、追及し、吸収して自分の物にしようとする。勉強熱心と言えるその精神は時に煩わしく、そして大体において羨ましかった。
「でも明日、仕事は?」
「大丈夫、6時から休みもらったから」
「いいのかよそんなんで」
「リーダーはいいって言ったよ」
「しょうがねぇなぁ……」
「やったぁ!」
 跳ね上がって抱きつかれた。たかがこれしきのことでこんなに喜ばれるとは。風呂上がりの肌が熱い。ていうか苦しい。自分の体重を認識してほしいものだ。
 ぽんぽんと肩を叩くと、ゆっくりと上体を起こして頬にくすぐったいようなキスをされた。本当にくすぐったい。これをされるとどういう顔をしていいかわからなくなる。避けるように顔をそらした。
「祭り好きなんて、日本人以上に日本人らしいな。もう俺より日本通だろ」
「そうだったらうれしいな」
 言葉通りうれしそうに言いながら大きなその手は俺の耳に掛かる髪をいじってくる。甘ったるい視線が注がれて俺は苦笑を漏らす。
「生意気」
「でも、まだまだもっと知りたいことはあるよ」
「へぇ、例えば?」
 協力できるならしてやろう、と親切心で聞いてみて後悔した。
 髪を撫でていた手が顎にかかる。目が合う。青い。
「カオルのこと」
「……」
 あぁまた飲み込まれる。


「――あ……」
 俺のを口に含んで愛撫しながら、一挙一動見逃すまいとじっとりとした視線が俺を眺めてくる。長い指は慣れたように後ろの穴をほぐし、口の中で限界を迎えた瞬間締め付けてその形をまざまざと思い知ることになる。
 2人分の体重を受けたソファが軋んだ。
「カオル……」
 横たわった俺の右足を肩まで持ち上げて交差するように体を入れてくる。そしてほんの少しだけ泣きそうな声で名前を呼ぶ。いつもだ。無意識なんだかどうなんだか、伝線しそうになる。
「んっ……」
 力を抜いて受け入れると恐ろしいほどにぴたりとはまる。好きだの愛してるだののささやきの合間に勢いでlove youが混じろうものなら不思議と倍以上恥ずかしくなりながら、それでも体は拒む術を知らない。
「カオル、カオル――」
 何をそんな必死に。
 横目で見た腹筋に汗が浮かんでいるのを見て思わず手が伸びる。臍の上付近の節を撫でるとさらに固くなって、息を詰めたような気配の直後、勢いよく肌がぶつかった。
「っ……!」
 急な衝撃。ごめん、と余裕ない声で前髪を撫でられた。でも止まらないのは分かってる。
「あ、ぁっ――」



「――ジェイって、欠点とかないの?」
「ん?」
 ベッドの上で俺を後ろ抱きしたまままどろむジェイは、んー、と考えながら首筋に唇を押し当ててきた。
「weak point? だったら……」
 弱点、ともまた違う気がするけど。しかしそういうのは自分で自覚してたら度を超すことはないだろうから本人に聞くものでもないかもしれない。
 まぁいいや、と耳を傾けていると、腰に回った腕に力がこもった。
「カオルだね」
「はぁ?」
「だから、カオルを愛しすぎてること」
「……」
 あぁもう、本当に可哀想な奴だ。
「俺は愛してない」
「うん」
 だから、うんじゃなくて。
 というやりとりはもう飽きたから黙っておいた。
 今一番どうしようもない男なのは紛れもなく俺だ。愛なんて返せないのに利用して自分の体だけ満足させてる、どうしようもなく酷い奴。



                     *****



 次の日、祭りのために俺は店長権限を利用して9時からの出勤にしたのだが、仕入れの関係で結局昼間にも顔を出すことになった。
 ランチの時間が終わり落ち着いた頃、料理長の鳥羽が作ってくれたまかないだけ食べて帰ることにした。ジェイは職場から直行するらしく、今日は6時半に神社で待ち合わせだ。
「――好きでもないやつに『愛してる』って付きまとわれたら、お前ならどうする?」
 俺の突然の発言に、同じく休憩をとっていた鳥羽は露骨に嫌な顔を見せた。
「何それ、ストーカーじゃないですか」
「あー、やっぱり?」
 やっぱり、言い方が悪かった。
「ちょっと店長、本気で大丈夫ですか? 変な奴に付きまとわれてるんだったら相談してくださいよ。俺結構強いですから」
「馬鹿、料理人が喧嘩なんかするなよ」
 面接の時から頼もしい奴だとは思っていたが喧嘩慣れしてるとは知らなかった。まぁ仕事にさえ影響しなければいい。まかないも美味いし。今日はドリアの具を再利用したオムライス。
「ていうか何なんですかそれ。はっきり拒否してるんでしょ?」
「……」
「ちょっと、店長?」
「あー、いや、だってなぁ、嫌いっていうわけでもないし」
「でも好きじゃないんでしょ?」
「んー……」
「じゃあ今そのストーカー、野放しの状態?」
 確かに、野放しといえば野放しだ。来たければ来ればいいし、飽きたら来なければいい。飽きたら……あんなに連呼していた「愛してる」だって、一度も言わなくなるのだ。連呼するくらいなら取っておけばいいのに、なんて。何て馬鹿げてる。
「……」
 視線を感じて顔を上げると、なんとも言えない表情で監察されていた。
「ん?」
「てか、何で好きじゃないんですか?」
「……は?」
 その聞き方はおかしいんじゃないのかと思ったが、鳥羽の方が腑に落ちない顔をして言った。
「だって、変ですよ店長」
「何が」
「なんか、薄幸のオーラ出てるし」
「発酵?」
「幸が薄そうな」
「お前……ずいぶんと失礼じゃないか」
 幸なら確かに薄い自覚はあるけど、他人に言われると腹が立つ。
「心配してるんですよ、一応」
「そらどーもな」
 同僚に恵まれて光栄だ。
「ごちそうさま。美味かったよ」
「まじっすか」
 そんな意外そうに言われると思ってなかった。立ち上がって皿を片づける俺を見上げて鳥羽が言った。
「顔しかめながら食べてたから口に合わないのかと思った」
「いや? ……あぁ、美味いのが癪だからだ」
「は? なんすかソレ」
 意味がわからない、と鳥羽は嘆く。
 まかないが美味いのはプロとしてのプライドがかかってるからとか、それは分かるのだが。
「何時間もかけて作るよりパッと作ったものの方が美味いってこと考えると、どうもな」
 ものに依るだろうけど、分かっていても修行中の身としては少々複雑なのだ。調理師免許を持たないまま店を持ったものだから遅ればせながらに勉強しているのだ。
「そりゃ俺の腕でしょう」
 そう言って鳥羽が笑った。生意気だ。
「まぁ意外と、単純な方が美味かったりしますからね。素材が大切ですし」
「単純ねぇ……」
 きっとそれが一番技術やら知識やらが必要になるところなんだろう。単純が難しいなんてたいしたパラドックスだ。
「あぁ、俺が免許取ったらチーフの座を奪われないように気をつけろよ。そうなったら減給だからな」
「げ、まじっすか!」




「――カオル!」
 祭りは家から徒歩15分のところにある神社であった。太鼓の音に導かれていくとすぐに分かった。露店と提灯が並んだ通路の奥で、太鼓に合わせて輪になり20人くらいの人々が踊っている。周りは家族連れや中高生でにぎわっている。
 ジェイは長い足で歩いてくると顔をめいっぱい輝かせて俺の恰好を眺めた。
 やるんじゃなかった、と途端に後悔。そういえば浴衣があったなと思い出し、着てみたのだ。和風のこういうものを喜びそうだと思ったし。それはビンゴだったわけだが、ビンゴ通り越していきなり一等の景品をもらったかのような顔をしているから気まずいったらない。そんないいもんでもないのに。
「すごい、超クールだね!」
「そうか……?」
 すごいすごい、と連呼するジェイの目は夜の闇の中でも青く輝いている。
「ねぇ、踊ろうよ!」
「はあ?!」
 良いことを思いついた、とばかりに盆踊りの輪を指差し、ジェイが言った。
「こうなったら踊るべきだよ! ね?」
「ちょっ……ジェイ!」
 こうなったらって何だ。絶対嫌だ、と断固拒否する俺の手をジェイが引っ張る。すると近くにいた高齢の男性にも「ほらほら、若い者は行っといで」と背中を押されて輪に入る羽目になってしまった。しまった。こんなこと予想できたら浴衣なんて着てこなかったのに。
 激しく後悔する俺の目の前で、俺以上に踊りを知らないらしいジェイがかなりの自由型で踊っているのを見てしまえば、もう笑うしかなかった。



「楽しかったねー」
「……それはよかった」
 たこ焼きを片手に、ジェイは満足そうだ。祭り好きだと言っていた割に踊れてなかったのだが本人まったく気にしていない。
「はい、カオル」
 境内の端にある石段に座り、爪楊枝にたこ焼きを一つ突き刺して俺の口元に持ってくる。そんなに光が届く位置ではないことを確認して、素直に口を開いて食べると、少し細められた目とぶつかった。
「熱い?」
「ん……大丈夫」
 よかった、と声は聞こえなくても笑顔から聞こえてくる。
 何やってんだろう。ふと思う。太鼓の音はいつの間にか止んでいて、スピーカー越しの軽快な音頭と穏やかな喧騒だけがその場を包んでいた。
 彼がいると世界が変わる。思ったことのなかった世界が目の前に広がる。彼の青い目がまるで自分の目にでもなったみたいに。
 でもいつまでもこのままではいられない。
 女の子の甲高い笑い声にふと視線を取られた時だった。
「カオル、僕来週帰るよ」
 さらりと空気に溶け込むようなトーンで隣の男は言った。
「……帰る?」
「うん、来週イギリスに……カオル?」
 白いTシャツから伸びたジェイの腕を、思わず握りしめていた。
「カオル? どうしたの?」
「いや……何でもない」
「何でもないなんて、ウソだよね」
 あぁ、嘘だ。
「カオル? カオル……泣かないで」
 頬を熱い手の平が覆う。それに自分の手を重ねた。
「行くなよ」



「――カオル、」
 鍵を閉めてドアの内側に押しつけるように唇を奪った。舌を絡めようとするジェイを制して俺は玄関に跪き、目の前のベルトを素早く外す。頭上で驚いた声が上がった。
「カオル、待って、どうしたの?」
 手で触れたこともほとんどないそれを口に入れることにためらいはなかった。昨日も俺の中に入っていたそれは口内で硬度を増していく。
 喜ぶ顔が見たい、離れたくない、という感情を、もっと単純に受け止めればよかったんだ。
「カオル、ベッドに……」
「嫌」
 余裕がない。自分がどんな顔を晒してるのか考えるのも怖いからジェイの腕を乱暴に引き寄せて玄関に押し倒した。止まる気のない俺をジェイは諦めたように肩をすくめて見上げてくる。でも息が荒いのは俺だけじゃない。肌蹴た浴衣の裾が忍びこんできた手によりさらに広がる。下着を脱ぎ捨てて跨り、俺の口で固くなったそれを見下ろしながら、唾液で濡らした自分の指で後ろを広げていく。
 見上げてくる青い目に吸い込まれるように飲み込んだ。
「あぁ……」
 青に惹かれたんじゃない。青を纏うそれ自身に心を奪われていたのだ。見る度に輝いていたのは目だけじゃなかったのに。
「カオル……」
 首を抱き寄せられて唇が重なる。下半身と同じように中に入ってきた熱くて太い舌を軽く噛みながら味わう。足りない。食べてしまいたい。
「ジェイ……愛してるって言えよ……」
 唾液を混ぜながらささやく。頬をすべる手がそっと唇を引き離し、青い双眸が射抜いてくる。青い炎だ。
「愛してる」
 燃やされる。
「俺も―――」



 ところが、ジェイが国に帰るのは一週間だけだと言う。
「何?」
「うん、ずっと帰ってなかったから。ごめんね? 言うタイミングがなくて」
「……まぁ、いいけど」
 何だよそれ。勝手に勘違いした自分を殴ってやりたい。とはいえ、後悔しているわけではないことは分かっていた。ただ……恥ずかしいだけだ。
「カオル?」
 シーツにくるまっていると、不安そうな声が飛んできた。
 その声で何度も「愛してる」と言われて何度もベッドで抱かれた。単純に受け止めるとその言葉は俺の中を肉体以上に満たしていくことを知る。今までまったく気付かなかったことだ。気付こうともしなかった。
「ねぇ、一緒に行こうよ」
 そっとシーツが捲られた。
「は?」
「だって、一週間でも離れたくないよ、カオル」
「……」
 どれだけ子供なんだ、と言うべきところなんだろうけど、すぐにそう言えなかったのは同意したい気分がなかったわけでもなかったからだ。
 今までの自分なら「目を覚ませ」と怒っていただろう。分かってる。もう浮かれたただの馬鹿でしかないことくらい。だけどもう、彼の笑顔でどうでもよくなる。
「一週間か……」
 考えていると、鞄の中の携帯が鳴った。
 重い腰を持ち上げようとする俺の代わりにジェイが持ってきてくれた携帯を受け取ると。
「あっ、今日仕事だ」
 店から電話だった。9時出勤の予定だったのにもう30分も過ぎている。
「えー! カオル今から仕事なの?!」
 行かないで、というオーラのジェイを無視して服を着込む。シャワーを浴びておいてよかった。だいぶ前に脱ぎ棄てた浴衣が足にひっかかる。恥ずかしい思いで拾い上げるとそれを受け取ってジェイがベッドに寝転んだ。
「休みにしようよ」
「馬鹿、店長がいい加減なことできないだろ」
 それに。
「一週間休み取るなら今頑張っておかないとな」
 ジェイの顔が輝いた。単純で可愛い。
 思わず手が伸びて、髪をかきあげ額にキス。
 まだ一度も口にはしていないはずの言葉を置き土産に部屋を出た。

「愛してるよ」



■END■