■雨雲と太陽

 付き合っている男が他の男とラブホに入ってくのを目撃するとか、男同士ならよくあることなのかなぁ。
「よくある、よくある……」
 って、例えそうだとしても、例え知らないフリする方が幸せなんだと分かってはいても、この重い気持ちはどうしようもないから、現に今溜息一つ。いや、さっきからもう何十回もついてるけど。
 別に、今更自分の性癖を嘆いているわけじゃないし、今更、女を好きになれると思っているわけでもないけど。分かってる。だからこれは簡単に飽きられる自分を恨むべきなんだ。けど。
「分かってるんだよ、そんなことは……」
 だけどどうすりゃいいのかは分かんないんだよ。何、性格? 女みたいに尽くせって? やりすぎちゃダメかなとか思うじゃん、そういうのって。
 ぐるぐるぐる、考えはまとまらないまま止まらない。
 こんな時は仕事もうまくいかないくて、ただでさえ見習い美容師なんて厳しいのにくだらないミス連続して今日は特にひどく店長に怒鳴られて、だからいつもは閉店後遅くまで居残り練習するのだが今日は速効店を追い出されてしまって、でも真っ直ぐ帰る気になれなくて、でも誰としゃべる気にもなれなくてふらふらと夜のオフィス街をさまよい歩いてかれこれもう1時間以上。
 帰りたくない。いつも置きっぱなしの彼のライターと、その気配を感じながらきっと泣いてしまうに違いない。それを想像するだけで心臓が痛くなってくる。実際心臓というか胃なんだろうけど。
 だって同時に自己嫌悪に陥るのだ。「もう何回繰り返せば気が済むんだろう」って。
「――あらぁ、さっちゃん?」
 そんな尋人の分厚い雨雲を吹き飛ばすような明るい声が、背後から聞こえてきた。
「……」
 今一番聞きたくなかった声かもしれない。
 ゆっくり振り返ると、予想通りの顔がそこにはあった。街灯に照らされるのは、日本人離れした身長と背中まである金髪、そして街灯以上に明るいんじゃないかと思うような無駄に笑みを湛えた美貌。
 どうしてこの人に見つかってしまうんだろう、とうんざりしていると、その美しい男はあっという間に距離を詰めてきた。
「やだもー、そんな嫌な顔しないでよ〜。まだ何もしてないじゃない!」
「美咲さん……この手は何ですか」
 何もしてないと言いながら腕を組んでくるその男に、尋人はうんざりとした様子で異議を唱える。
「あらやだ、つい条件反射で」
 そう言って一ミリも悪気のない笑顔で顔を覗き込んでくる。長い睫毛に色素の薄い目、すらっと高い鼻とか、明らかに人種の違うその顔が、どうしてこんな近くにあるのか。まったく理解できない。でもこの所謂オネェ口調というのはもう慣れた。逆にこれでないと落ち着かないくらいのレベルには。
 美咲は一人うれしそうに尋人に訊ねてきた。
「でも珍しいわね、こんな時間にどうしたの? 今日はお仕事曜日よね?」
「あー……仕事、早く終わったんで」
 そう言うと、美咲は「あら、よかったわね」と純粋に喜んだ。意味が違うのだが、でも彼に非があるわけじゃないからそこはスルー。
「あ、じゃあデートしましょ、デート。ご飯おごるから」
「いや、結構です」
「えー、なんで?」
「何でって……」
 そんな気分じゃないんだよ。
 というか、何で誘われるのか分からない。そもそも、行きつけのショップの店長と客ってだけの関係である。だけどなぜか自分を気に入ってくれてて、初めから超フレンドリーにさっちゃん(本名・佐々木尋人)呼ばわりだし、道で出会うと必ず声をかけられてしまう。一緒にいると目立つから結構嫌なんだけど、でもこの人は誰に対してもそうなんだろう。友達は多いようだし。しかし特におもしろいこともなく可愛げのない態度しか取ってないこんな自分にも声かけてくれる辺り奇特な人とも言える。試着に紛れてたまにセクハラされるのは問題だが。
 断ろうとすると、美咲の手がそっと尋人の頬を撫でた。
「だめよ、だってさっちゃん死にそうな顔してるじゃない」
「何言って……死にませんよ」
 冷たい手。珍しく神妙な顔が覗き込んできて、思わず振り切るのをためらってしまった。そんなに分かりやすい顔してるんだろうか。落ち込んでますって顔に書いてあるんだろうか。ていうか、死にそうな顔だなんてあんまりだ。
「しゃべりたくないならしゃべらなくていいから。そんな顔で一人にさせておけないわ。ね、お願い」
「……」
 私のためだと思って、なんていう美咲に、少し心動かされてしまった。
「……じゃあ、ちょっとだけなら」
 と、そうやって押しに弱いところもいけないのだと後になって後悔するのだが。


 そして、結局入ったのは近くの焼き鳥屋だった。まさかの美咲チョイス。
「似合いませんね」
 尋人は思わず口走ってしまった。
 だってその顔で焼き鳥って。飲んでるおじさん達にものすごく見られてるからこっちが恥ずかしくなる。
「あら、そう? おいしいじゃない。好きよ私」
 そう言ってねぎまをかじっている。そのあまりに似合わなさすぎる構図に思わず笑ってしまった。
「まぁ、俺も好きですけど」
「まっ両想いね!」
「あのねぇ……」
 もういいけど。
 さっきまで落ち込んでたのに、この人の相手をするとなるとどうも落ち込んだままではいられない。まぁ相手をしなければいいのだが、しかし好きなショップの店長だと考えればそう邪険にするわけにもいかないし。
 ビールを飲んでいると、ふと視線を感じた。
「可哀想」
「え?」
 グラスを置いた尋人の手を、美咲が撫でた。びっくりした。何のことかと思いきや、荒れた手だ。仕事上尋人の手はひどく荒れている。
「まぁ、仕事ですから」
「がんばってるのねぇ」
「……」
 しみじみと言われて、尋人は思わず首を振ってしまった。
「全然……駄目です、俺なんて」
「どうして?」
「私情挟んでミスするとか、まだまだじゃないですか」
「あら、あるわよーそれくらい。寝坊しちゃって遅刻とかね」
「美咲さんは店長だから許されるんですよ」
「許されてないわよ〜後藤君に怒られるもの。あの子怖いのよねぇ」
「後藤君に? しっかりしてて頼りになるじゃないですか」
「なぁに、さっちゃんはああいうタイプが好きなの?」
「……」
 思わず無言になってしまった。美咲にはゲイであることは言ってないはず。それとも、そういう意味の「好き」ではなかったのだろうか。あぁどちらにしろ、不自然に間を開けすぎた。そのことに気付き、尋人は慌てて口を開いた。
「そうですね、後藤君の方がかっこいいですね」
「あら、ヒドイ」
 その返答が普通で安心したけど、内心すごくドキドキしていた。でも考えてみれば、この人にばれたところでどうなるってことでもないのだ。自分にとってもこの人はタイプじゃないから対象外だし。そう考えると、ちょっと気が楽になってきて。
「美咲さんは、男が好きなんですか?」
 ずいぶんストレートなセリフが出てきてしまった。失礼だったかもしれない、と思って少し顔を伏せていると、ふっと笑った気配がした。
「なぁに、急に。びっくりした」
 流れるような仕草で頬杖をつき、尋人の顔を覗き込んでくる。やっぱり綺麗な人、と思わず見つめてしまった。この人だったらさぞかしもてることだろう。口調はともかくとして。
「男と男って、浮気が普通なんですかね……」
「……」
 これもまた言ってから後悔した。どうしてこの人相手だとこう口が軽くなってしまうのだろう。いつもはもっと慎重に行動するのに。恋人に対してなら尚更。
 だってこの人くらいもてるなら捨てられることなんてないに違いない。そしてそんな悩みなんてあるわけないに決まってる。同じレベルで考えてしまった自分がものすごく恥ずかしくなってしまった。
「すいません、今の、忘れてください」
「浮気されたの?」
 声のトーンが一段と低くなった。
「……」
 あぁもうこれは、白状したも同じことか。
 俯いて黙っていると、頭を撫でられた。
「可哀想に……」
 おかしい。
 こんな単語一つで、目頭が熱くなっていくのが分かった。堪える間もなく涙がこぼれる。
「すっ、すいませ……」
 何やってんだろう馬鹿みたいだ。きっと馬鹿みたいって思われてる。こんないい歳して浮気されて泣いてるなんて……しかも男相手に。
「いいのよ、泣いちゃって」
 綺麗な手が、尋人のガサガサな手に重なる。いつもなら「セクハラですよ」と振り払うのだが、なぜかそうする気にはなれなかった。
「すいません、本当に……」
「こんな可愛いさっちゃんを泣かせるなんて、よっぽどしょうもない男なのね」
「か、かわ……?」
「さっちゃん、まだソイツのこと好きなの?」
「……」
「ねぇ、私にしない?」
「…………へ?」
「さっちゃんのこと、誰よりも大事にするから」
「…………」
 にこり、と非常に綺麗な笑顔で笑われて、尋人もついつられてへらっと笑い返してしまった。
「お気遣い、ありがとうございます」
「さっちゃん?」
「もう大丈夫ですから」
 びっくりした。この人の冗談はちょっと分かりにくい。けどきっと誰にでも言ってるんだろう。
 そう思って尋人は残っていたビールを飲みほした。心なしか落ち着いた気持ちに気付き、たまにはこの人の強引さに飲み込まれてみるのもいいな、と思いながら。


                     *****   


「何で? どうして伝わらないの?! ありったけの勇気を振り絞って言ったのに……!」
「店長でも勇気使うんですか。てかそれより早く注文書チェックしてくださいよ」
「ねぇ後藤君何がいけないんだと思う?!」
「いやだから知りませんて……あ、いらっしゃいませー」
「そうだわ、さっちゃん後藤君の方がカッコイイだとか言ってたし……もしかして本気でアンタのことを……!」
「へぇ、じゃ俺にもチャンスがあるってことか」
「ちょっと、手出したら本気でクビにするわよ」
「職権乱用。冗談ですから仕事してください」
「何がいけないのかしらホントに……」
「聞いてないっすね……」
「それにしても泣いた顔は可愛かったわぁ……」
「……」
 もうつっこむのは止めた後藤を気にもせず、美咲は一人の世界に入っている。
「濡れた睫毛は色っぽいし唇震わせて超可愛いの……あぁもう食べちゃいたい」
 まぁ、涙の原因が他の男ってところが一番気に食わないんだけど。
「本当、好きっすねー、佐々木さんのこと」
 今日は平日で客もまばらだ。客の途切れた隙に後藤がしみじみと言った。客の相手より店長の相手の方が大変だ。
「だって可愛いじゃないの!」
 拳を握って力説する美咲。その美貌にはまったくもって似合わない。あぁもったいない、と今更ながらに後藤は苦笑した。
「それ、大の男が言われて喜ぶとは思えないんすけど」
「気が強いのかと思えば謙虚だったり、本当は寂しいのに強がってるとことか、もうたまんない……どろっどろに甘えさせたくなっちゃう」
 だって昨日は本当に可愛かった。
 ゲイなのはわかっていたが、彼氏がいるらしいと聞いて見守るだけで(いや触ったりはしたが)諦めていたのだ。待っていてよかったと思う。あの時道で出会ったのも運命を感じる。でも、気持ちを伝えたにも関わらず本人まったく気付いていないのが現状だが。鈍感なところも可愛いけど、あそこまであっさりスルーされるのは問題だ。
「あのですねぇ、その口調が駄目なんじゃないですか」
「何でよ」
「なんつーか、冗談ぽく聞こえるとか」
「何よ、私のアイデンティティを壊す気?」
「いや俺は壊しませんけど」
「じゃあ何よ、『俺と付き合ってくれないか(低音)』とか言うの? この私が?」
「あ、すいませんそっちの方が気持ち悪いです」
「ちょっと失礼ねっ!」
「あ、いらっしゃい佐々木さん」
「――こんにちは」
 来店した佐々木尋斗の姿に、美咲がすごい勢いで振り返った。
「あらー、さっちゃん!」
 そして目が合うなりぎゅっと尋人に抱きついた。すると速効で突き放されるのはいつもの光景である。そんなだから出会う度渋い顔をされるのだということはまったく気にしてないらしい。
「もう、美咲さん!」
「何よぉ、ほんのあいさつじゃない」
「そんな挨拶いりませんから」
 いつもの調子で冷たく言い切ってから、はっと思いだしたように尋人は気まずそうに顔を逸らした。あらどうしたのかしら、と不安になって美咲が顔を覗き込むと、尋人は言いにくそうに口を開いた。
「その……昨日はすみませんでした」
 そんな素直な姿に、やっぱり可愛い、と再び抱きつきたくなるのを抑えて美咲は満面の笑みを浮かべた。
「あらぁ、気にしなくていいのよ〜。ちょっとは落ち着いたかしら?」
「おかげさまで」
「佐々木さん、相談なら俺も乗りますよ」
「あ、ありがとう後藤君」
 口を挟んできた後藤を美咲はキッと睨んだ。本気か冗談か、こいつは油断ならない。
「さっちゃん、今日お休みよね? お食事でもいかない? 今日はちゃんとしたところで」
「え? っと……後藤君も?」
「あ、いいんスか?」
「後藤君は彼女とデートだったわよねぇ」
「そんなこと言いましたっけ?」
「言ってた! 言ってましたー。とにかく、二人で、ダメかしら?」
「……」
 昨日お世話になったしなぁ、と考えているのだろう、尋人は少ししてうなずいた。
「いいですけど……」
「まぁ! ありがとうさっちゃん!」
「だからっいちいち抱きつかないでくださいって!」
「ごめんねぇ、つい癖で」
「もう、直してくださいよそんな癖」
 そう言って少し膨れる顔も美咲の目には可愛くしか映らない。相当に緩んだ顔で美咲は言った。
「もう少しであがるからちょっと奥で待っててもらえるかしら?」
「え、そんなの、外で待ってますよ」
「いいのいいの!」


 強引に押し切られてスタッフルームで待っていたが、ものの10分で美咲はやってきた。
「ごめんねぇ、お待たせ〜」
「店、大丈夫ですか?」
「平気平気、後藤君がいるから」
 その後藤君が怒ってるんじゃないかって話なんだけど……この調子じゃ多分強引に切り上げてきたんだろうから、怒ってることだろう。後で謝らないと、と尋人が思ってると、美咲はそんなことまったく気にしてない顔で尋人の手を引いた。

 早まったかなぁ……
 隣を歩きながら、尋人は少し後悔しかけていた。
 そもそも、この人と一緒に歩くのは苦手だ。やたらと目立つ人と一緒だと、なんで自分なんかが隣を歩いているのだと非難されているようで。いやもちろん自意識過剰だとは思うけど。だけど昨日の一件で、この場所は少し居心地がいいと思っている自分に気付いてしまった。確かに昨日目の前で泣いてしまったことは恥ずかしくて気まずい出来事だけど、笑いもせずに受け止めてもらえたことは何よりもうれしかった。だけど同時に、このまま甘えてしまうことに抵抗もあった。だって店員と客という関係だけでこんなによくしてもらう理由はないのだ。こっちが何を返せるわけでもないのだし。それなのに、この人は、どうしてこんなに気にしてくれるんだろうか。もしかして単純に客を手放さないため? それは商売人にとっては当然のことだと頭では理解してるのに、考えると少し胸がチクリとした。
 そっと隣りを見上げると、綺麗な横顔がにこりとこちらを向いた。暗い中でもその造形が色あせないのはすごいと思う。
「だいじょうぶ? もう少しで着くからね」
「あの、美咲さん」
「なぁに?」
「どうしてそんなに優しいんですか?」
「さっちゃん……」
 滅多に聞けない静かな声に、思わずどきりとした。
「昨日言ったこと、覚えてる?」
「え?」
 昨日、昨日……脳をフル回転させる。
「私にしない? って言ったでしょ」
「……え」
「あれ、本気よ? 私、さっちゃんのことが好きなの」
「……」
 しばらく、じっと見つめ合ってしまった。でも、本当か嘘か、その瞳からは判断できなかった。
 だってそんなの、冗談にしか思えない。
「優しいのはね、下心があるからよ?」
 ウィンクを飛ばされて、尋人は思わず避けてしまった。
「あ、ヒドイさっちゃん!」
「つい条件反射で……」
 いや、だって嘘でしょう。だってこの人住む世界違うし、誰にでもこんなこと言ってそうだし……それに、後藤君ともいい雰囲気だったし。
「――尋人?」
 名前を呼ぶ聞き慣れた声に、尋人はさっと顔をこわばらせた。
 近づいてくるその男は。
「何なんだよ、お前」
 ぶっきらぼうな声。怒ってる。
「電話に出ねぇと思ったら、浮気か?」
「なっ……」
 浮気。その単語は自分が言われるべきものじゃないはずだ。
「それはっ……こっちのセリフだろ」
「あぁ? どういう意味だよ」
 かかってきた電話もメールも全て無視した。一回くらいの浮気なんて、と言われるかもしれない。でも浮気なんて許せない。本当に自分だけを見てくれる人じゃないと嫌だ。そう思ってこっちも好いてもらえるように相手好みになれるように色々努力してきたけどでもそんな無理やり作った自分を大切にしてもらうことが自分の幸せなんだろうか。何か違う。だって努力はしてたものの、今となっては本当に好きだったのかと疑問すら抱いてしまう。この人が欲しかったんじゃなくて「恋人」が欲しかっただけなんじゃないか。それくらいなら、それが仕事に支障を与えるくらいなら、もういらない。
「もういらないんだろ、俺なんか」
「はぁ? 何言ってんだ。てか……誰だよソイツ」
 隣に立つ美咲を睨んできたので、尋人はその前に立ちはだかろうとしたが、そっと肩に手を置かれた。
「え……」
「何って、恋人だけど?」
 美咲が言った。
「なっ……」
「はぁ?」
「あんたこそ誰だよ」
 低い、男の声だ。
 初めて聞くその声に驚いてその背中を見つめてしまった。だって一瞬誰かと思った。
 そして背中しか見えない尋人には分からなかったが、その異様な迫力に男は何も言えずに顔を赤らめている様子。
「行こう、尋人」
「あ……」
 尋人。自分の名前なのに初めて呼ばれたような気がする。
 とても温かい手のひらが尋人の右手を包み込んだ。



「――ありがとうございます、美咲さん」
 姿が見えなくなった辺りで、尋人は美咲の手を引っ張って立ち止まった。
「あら、いいのよぉあれくらい」
 口調が戻ったことに若干ほっとして、尋人は顔を上げた。
「さっちゃんが仲直りしたがってるなら余計なことはしないつもりだったけど……そうじゃなかったんでしょ?」
 確認されて、尋人はコクリと肯いた。
「なんて……ごめんね」
「え?」
「私が言いたかっただけなの」
「……」
 申し訳なさそうに言われて、尋人は思わず首を振った。
 そんなことない。それに、この人にそんな顔似合わない。
 昨日はあんなに動揺して落ち込んでいたのに、不思議なくらいにもう平気だった。それもこれも、この人のおかげなんだろう。さっきだって隣にいてくれるだけで安心できた。はじめは一緒に歩くのも嫌だったのに、いつの間にそんな存在になってしまったのか。
「でもさっきの声、びっくりしましたよ」
 つないだままの手がはずかしくなってきて、でも離して下さいとも言えなくて、わざと明るいトーンで尋人がそう言うと、美咲はにこりと優しい笑みをくれた。
「あらそう? カッコよかった?」
「うん、惚れちゃいそうでした」
 美咲のノリに合わせて冗談ぽく笑って答えると、つないだ手がぐいと引かれた。
「えっ……」
 頬に当たる冷たい手。触れた唇も冷たかったが、すぐにジンと熱くしびれてきた。
「――なっ……」
「もう……さっちゃんてば、何でそんなに可愛いの」
「えっ……え?!」
 今まで以上に近い距離で見るからだろうか、その顔を見て心臓が破裂しそうにドキドキするなんて初めてだった。
 ――ていうか何今の?! 何でキス?!
 あ、もしかして……お礼は体で、とかそういう話? まぁ、別にいいけど、キスの一つや二つ……とか思いながら。
 なんでこんなに心臓が治まらないんだろう。
 せめて手、離してくれないかな、と思ってると、ごめんね、と頬を撫でられた。
 何がごめん? お礼だったら当然の報酬だし。というかこんなのがお礼になりえるのかそれ自体怪しいけど、まぁ本人がいいと言うのなら……
「でもね、さっちゃん。本気で考えてみて?」
「え?」
「すぐには無理だろうけど、私、待ってるから」
「……」
 ……な、何を?
 と思ったが、なんだか聞けない雰囲気である。
 なんだっけ、何の話してたっけ、とぐるぐる考えながらも、やはり繋がれた手はいつまでも温かくて、その温かさのせいなのかなんなのか、いつになく激しくなった心臓の鼓動はなかなか治まらなかった。


■END■